否定的な意見を映画公開頃よく見かけたので今まであまり観る気はなかった。そして今でもたまにそうした意見を見ることがある。そのため、ここまで言われる最後のメタ展開とはどういうものなのだろうかと逆に気になった。
それで、レンタルして観てみた。
……かなり酷い内容だと覚悟して観たためか、意外とそこまで悪くはなかったと感じた。
むしろ、ドラクエⅤのストーリーに驚いた。
主人公(映画の名前はリュカ)は子どもの頃に父親と共に旅をしていて、敵の幹部ゲマによって父親が倒されるとヘンリー王子と共に攫われて奴隷として十年以上過ごすことになる。
子どもが遊ぶ国民的RPGの主人公としてはかなり過酷な境遇だ。
その後脱出して順風満帆に行くかと思いきや、結婚して子どもが出来た後にまたゲマと遭遇し、夫婦共にゲマによって長年石にされてしまう。そして主人公を助け出したのは──
後で調べたら最後の展開以外はほぼ原作準拠のストーリーになっているらしい。たぶん、この映画を観なかったら原作ドラクエⅤのストーリーを知る事も無かったので、その点は観て良かったと思った。原作をプレイしてみたいとさえ思った。
最後のメタ展開にしてもそうで、僕には意外と悪くなかった。
ただ、それは僕が原作未プレイ+かなり否定的に受け取られている最後のネタバレを事前に知っていて覚悟していたのも大きく影響しているだろう。尤も、調べると僕と同じ条件で観ても最後の展開は「ないわー」と言っている人もいた。僕は少数派かもしれない。
映画のタイトルが「ユアストーリー」なので、メインターゲット層はかつてドラクエⅤをプレイした人たちのはずだ。制作陣の意図とプレイヤーの心情のすれ違いについてはいろいろな人たちが既にたくさん述べているが、僕なりに双方について考えてみたい。
●制作陣はなぜ最後のメタ展開を導入したのか。
実はその理由は僕にはよくわかる気がするのだ。と言っても、制作陣のインタビューなどは見てないので僕の勝手な想像だが。
まず「主人公が喋らない型のRPGゲーム」を映画にする際に大きな壁が生じる。
それは映画の主人公の性格をどうするかという問題だ。
原作ゲームの場合はそこは問題にならない。むしろ主人公が喋らない、性格がないからこそプレイヤーが主人公となって冒険に出ることが出来た。ゲームの主人公はプレイヤーそのものだったのである。
映画の場合はそうはいかない。映画の世界に一人だけ頑なに喋らない主人公をそのまま持ってきても何かシュールだ。
映画の主人公はかつてのプレイヤーだ。そのため、その主人公像はプレイヤーの数だけある。そのどれか一つを映画の主人公にしても、他のプレイヤーたちが取りこぼされる。
だが、一人の人間が持つのは基本的には一つの性格だ。主人公はある一つの性格を持ち、かつ、それはプレイヤーたちの物語でなければならない。どうするか。おそらくその対処法の一つがメタ構造だったのではないか?
劇中の主人公がゲーム内のドラクエ5の主人公そのものなら、どんな性格付けをしてもプレイヤーに違和感が生じかねない。
そこでゲームドラクエ5の世界の外部、上位世界から遊びに来た人物を主人公とすることで、その立ち位置はプレイヤーたちと重なり得る。
つまり劇中の主人公はかつてドラクエを楽しみ、大人になってドラクエの映画を観に来た観客と同じ立ち位置にある。言わば観客の代理人だ。「ゲーム内の主人公=かつてそのゲームをした時のプレイヤー」を映画の主人公にすることは無理でも、「ゲーム外の世界からゲームをする主人公=観客としてゲームの映画を観に来たプレイヤー」を映画の主人公にすることは出来る。そうすることで、かつてのプレイヤーたちの思い出は守られる……。
もちろん、これは僕の想像に過ぎない。そして、仮にそうだったとしても、その試みが上手くいったとは言えないだろう。
●「大人になれよ」が問題だったのだろうか。
よく批判的な意見の中で見られたのがこの悪名高い台詞である。
確かにあまりいい言葉とは思えない。あくまでウイルスを作った人間の発言を、ウイルスが伝えたに過ぎないとはいえ。
しかしそれでも少々過敏に反応し過ぎではないか?という疑問もある。尤も、それには相応の理由があるのだろう。その一つに急な展開の連続があると思う。
何かわけのわからない展開が急に起きて
何かわけのわからない人型が急に現れて
何かわけのわからない台詞を吐き始める
この3連コンボをいきなり喰らっては呆気にとられるのも無理はない。
また、別の理由もありそうだ。
僕はこうしてアニメ映画の感想を書いている。
もし、そういうことに批判的な人が見たら、このように言うかもしれない。
「いつまでもアニメ、ゲーム……いい加減大人になれよ」
余計なお世話である。
確かにいい年して恥ずかしい気持ちは少しはある。三十代後半の僕が映画『ちいかわ』を一人で観に行くのは少し抵抗があるように。
Xとかを見るとオタクがツイフェミのような層からバカにされているのを見かけたりする。
昔のオタクは犯罪者予備軍などという謂れなきレッテルを貼られ、メディアもそれに便乗していたことがあったという。ただ、当時のオタクたちがそうした偏見に反論して戦ってくれていたことが、今ではオタク文化が市民権を得るようになった理由の一つにあるように思う。今でもバカにされることがあるけど、今だってオタクたちは謂れなきことに対して戦ってくれている。ありがたい事である。
だが、そうした経緯が、そのようにバカにされる事に対して敏感になっている理由にあるなら、自分が好きな作品の映画で「大人になれよ」などという、オタクを批判してきた者たちの言葉が使われるのは許せないものがあり、また悲しい気持ちになったのかもしれない。
仮に、制作陣の意図が
ウイルス=観客の不安や怖れといったものの具現化
スラリン=それに負けず観客のゲーム体験を肯定する自我意識
という、主人公=観客の心の中の葛藤の戦いという内面世界において、観客の思い出を肯定する形で決着が着くようにラストバトルが描かれたのだとしても、現実においてはウイルスの言葉の方が強い影響力が持っていたため、そこに齟齬が生じた側面もあったのだろうか。
●ビアンカとフローラ
ダブルヒロインであり、これも制作陣を悩ませたに違いない。
どちらにも好きな人たちがいる。ゲームにおいてそうであるように、映画においてもどちらかを選ばざるを得ない。だが、選ばれなかった方は取りこぼされてしまう。
だが、映画においては、これは上手くやったなという思いが僕には強くあった。そしてそれは、悪名高いメタ的構造なくしてはあり得なかったのである。
まず劇中で選ばれるのはビアンカである。
だが、フローラも格を落とさなかった。選ばれなかった憐れなヒロインではないのである。
フローラはゲーム内のキャラクターでありながら、現実世界の上位の人間である主人公の隠された心情を読み取り、主人公がゲームを始める前に行った設定を途中で変更させている。
いわばゲーム内キャラにおけるゲームシステムへの干渉であり、これは今のデータ化した時代ならではの表現だろう。
「これまでビアンカを選んでたから今度はフローラ」という主人公の発言から、主人公が子どもの頃に遊んだドラクエⅤで選んだのはビアンカであった。
つまりフローラは、大人になった主人公の選択よりも主人公の子どもの頃の思い出を、壮大な冒険をしたというゲーム的原体験の思い出を優先させたと言えなくもない。
つまり、フローラのこの行動に、この映画のテーマをラストのあの展開よりも端的に見ることが可能なように思うのだ。
尤も、だからと言って主人公がフローラに何も言わずに去るのは許せん、という意見もあって、そういう見方も面白く思ったが。


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