【葬送のフリーレン】死後を信じない自分が天国の話に共感

アニメ・漫画など

 

最近アニメの二期を観ました。

面白かったので、久しぶりに一期も観ると序盤の天国の話がやはり印象的だったのでそのことについて書きます。

天国の話について


天国がある方が都合が良いという話。


フリーレンがかつての仲間である勇者ヒンメルたちと旅をしていた時に、ドワーフのアイゼンの家族の墓の前で僧侶のハイターが祈り、こんな風な会話をしていた。


アイゼン「何をしている?人は死んだら無に帰る」
ハイター「天国に行くんですよ」
フリーレン「昔は無に帰るという考えが主流だった。私も天国には懐疑的」
ヒンメル「どっちでもいいと思うけどな」
ハイター「私もどっちでもいい。けれどあるべきものだと思う。その方が都合が良いから。必死に生きてきた人の行きつく先が無であっていいはずがない。だったら天国で良い思いしていると思った方が良い」

僕自身は、死後に自分が天国に行くとは思っていない。それは地獄に行くからそう思っているのではなく、自分がそもそも死後の世界を信じていないためであり、また輪廻するとも思っていない。自分の死後については確信が持てず、何となく自分が死んだら無になるんじゃないだろうか、そしてそれは嫌だなぁと思っている。

しかし、そう思っているはずの自分が、既に亡くなった親しい人を思う時は、どうしてもその人が無になったとは思えない、という強い感情があることにも疑えないでいる。

自分が死後の世界に行く事は信じることが出来ないのに、親しかった人には今頃天国やあの世で楽しい思いをしていて欲しい、あるいは輪廻をして新しい生を送っていて欲しい、と願っている。加えて、自分が辛い時や苦しい時とかには見守ってくれていたら嬉しい、などと都合の良いことも考えてしまう。

こうしたことは僕だけが感じるものではなく、現代人の多くの人たちも当然のように経験していることではないだろうか。


一方では、近代科学の影響などで大抵の事は合理的に説明することが可能となったため、宗教の言う死後の世界は非合理的なものだと多くの人は考えるようになった。

「今の人類の魔法技術じゃ死後の魂の観測ができないから、実在を証明できないんだよね」


フリーレンはこのようにも言っている。科学も魔法世界同様に死後の世界を観測できず、またその実在を証明できないため、それがあるともないとも言うことが出来ない。


他方で、亡くなった親しい人は今頃あちらで楽しく暮らしている、暮らしていて欲しいという考えも僕は同時に持っている。こうした矛盾が当たり前のように同居している。

昔読んだテグジュペリの『星の王子さま』に、たしかこういう描写があった。パイロットの主人公が、ヘビに噛まれて星へかえった王子さまのことを考えていて。もし王子様が今頃悲しんでいると思うと、そのパイロットも悲しい気持ちになり、楽しんでいると想像すると楽しい気持ちになる。そして、そうしたことは何と不思議な事だろう、と彼は驚嘆していた。


パイロットと王子さまは強い絆で結ばれていた。それは、キツネの言葉で言えば、”一緒に暇をつぶした”からだった。過ごしてしまった時間はかけがえのないものになる。キツネが言った“大事なものは目に見えない”という言葉によって、王子さまは自分の薔薇が他の薔薇と違うことに気づく。

ヒンメルが天寿を全うした時に、フリーレンは涙を流す。それは悲しいからではない。悲しみに加えて「たった10年一緒に旅しただけでこの人の事を何も知らない」「人間の寿命は短いとわかっていたのに、なんでもっと知ろうと思わなかったんだろう」という強い後悔が主にそうさせた。


千年以上を生きるエルフと百年くらいの寿命の人間とでは時間に対する感覚が異なる。だがそれを理由に自己弁護せず、心から後悔したところに彼女の立派さが表れてもいる。


少し話がそれるけど、フリーレンの「わかっていてやらない」は僕を含めた日本人に最も多い楽観主義のタイプでもある。このままでは後悔する、しかしそれを正面から見据えるのは面倒くさい、それで問題を先延ばして後悔することになる。そしてもっと悪いことに、日本人はそれすらも受け入れず「後悔しない」道を選びがちだという。このことは俳優・旅人の関口知宏氏や戦史研究家の半藤一利氏の著書などで知った。太平洋戦争ではノモンハン事件から何も学ばなかったためにインパール作戦で同じ失敗をくり返し、戦後ではバブル崩壊後に長期不況に陥ったこともそうした欠点を意識せず蓋をしてきたことにあり、意識をして現状の課題を自覚した場合には第一次石油ショックをいち早く抜け出して経済大国になったりしてきた。


また、近代文明の進展によって死や病を遠ざけた現代人は、ある意味でエルフのように長寿化を実現した。日々の生活に忙しい現代人は死と向き合う機会が減少し、それに関連して生の意味を喪失する人々が増加した印象が僕にはある。それらが日本人の二つの欠点をより強固にし、国全体に巨大な蓋を被せて日本人を半ば眠らせているような状態になっている。フリーレンは、かつて自分は怠惰だったと言っていたので、もしかしたらこうした欠点を持っていたのではないだろうか。


そして、フリーレンは「後悔をして」それと向き合い、人間を知る道を進むようになったことでそれを克服しつつあるのだろうか。尤も、彼女は既に勇者パーティーの頃に魔王を倒し世界を救った英雄であり、人間から見ると永遠に近い時を生きる人生の先達であり、フェルンやシュタルクと言った若者を導く存在でもある。彼女の人間を知る道は、既に冒険が終わった後の世界の旅であり、二週目の旅でもある。それは人生で言えば人生の折り返し、後半への道、ということにもなるだろうか。

二週目の旅はヒンメルを供養する旅


二週目の旅の目的は、北の果てにある「魂の眠る地」でヒンメルと話す事になった。ヒンメルが亡くなり、フリーレンが後悔した時にアイゼンとハイターは二人を可哀想に思い、死者と会話ができるその場所について調べた。フリーレンとフェルンは通称天国と呼ばれるその存在に懐疑的だった。しかしアイゼンは言う。

「天国はある。そのほうが都合がいいだろう」
「…そうだね。たまには信じてみるか」



僕が思うに、もともと人間を知る道を進んでいたフリーレンにとって、その天国が実在するかどうかはあまり重要ではないと思う。むしろ彼女にとって重要なのは、まだ済んでいないヒンメルの供養をすることにあるのではないだろうか。


ハイターが亡くなった時のフリーレンは人間を知る道をすでに歩み始めていて、その上でフェルンと共に供養することが出来た。しかしヒンメルが亡くなった当時のフリーレンはヒンメルについて「何も知らない」状態だった。そのため人間のことを知ろうとフリーレンは再び旅に出た。彼女の旅の基底にあるのはヒンメルを中心とした親しい人間、死者への想いであり、二度目の旅におけるフリーレンの他者への行為の一つ一つも、当然その他者へのものであると同時に親しい人のためのものでもあり、また自分のためでもあるのだろう。ハイターは原作の二話でこのように言った。ヒンメルは私とは違った人間だった。しかし私がこのまま死んだら彼から学んだことや思い出までこの世から消えてしまうのではないか。この想いはそのままフリーレンの想いにもあてはまる。それで、ヒンメルから学んだことを活かそうとする。そしてフリーレンにとってはそれらを続けていく事自体がヒンメルへの供養になると考えている、と僕は思った。


またそれはヒンメルだけでなく、愛情深いフリーレンは親しい人の記憶を全て未来に連れて行ってくれるのかもしれない。それをいつまでやるか、でフリーレンは長寿だから何千年もこの先やり続けるだろうけど、フリーレンと違い短い時しか持たない人間の読者向けの物語としては、北の果ての目的地までで一区切りにする、と。

魂の眠る地と魔王城でイメージしたこと


個人的に興味深かったのが、北の果てには魂の眠る地だけでなく魔王城もあるということ。フリーレンたちの世界には魔族という存在がいて、彼らは人間を捕食するために言葉で欺く。どうも、この天国と魔王城という二つは死に対するプラスのイメージとマイナスのイメージを連想した。


僕の場合、親しい人の死後には天国やあの世で楽しく暮らしていて欲しい、と自然に強く思うことは出来る。これはプラスのイメージかもしれない。対して自分の死後に対しては無などを想像し、嫌な気持ちになる。これはマイナスのイメージかもしれない。


死への恐怖はおそらく誰にでもある。この恐怖はただの感情を越えているため、宗教学者のオットーの言う戦慄すべきもの、ヌミノーゼに当てはまる気がする。


しかし同時に、天国や涅槃など、死後に美しくて楽しい場所に行くというイメージも世界中にある。ヌミノーゼのもう一つの特徴には神々しい、美しいという情動があるため、親しい人は天国にいる、というイメージはこっちの情動に関連するのかもしれない。


映画監督の宮崎駿は天国や地獄は信じていなかったものの、自分の死後にはあの世で亡くなった人たちに会う、と当たり前のことのように考えていた。彼は自分の死後にもプラスのイメージを持つことが出来ているのかもしれない。


アニメの11話にクラフトという人物が登場する。彼はフリーレンと同じく長寿のエルフであり、過去に数々の偉業を成したものの、今では誰も覚えていない。そんな彼は、天地を創造した女神の存在を信じていた。自分が死んだら女神に褒めてもらうから、いてもらわなきゃ困ると。彼の自分の死後のイメージもプラスのものだった。


クラフトは女神の代わりにフリーレンを褒めようとするも、フリーレンはハイターに褒められたことがあるからいいと断る。そんなフリーレンもハイターや他の身近な人たちを褒めたりしている。


こうした深い信頼と愛情のある関係から生じる営みが、死の恐怖を永続的に消すことは出来ないにしても、一時的ではあっても大きく緩和させることはあると思う。


また、自分や他者にいざ死が目前に迫った時に一番支えになるのも、こうした深い絆による営みだと思ってしまう。親しい人の死が悲しいのも、親しい人の死後の幸福を願うのも、それはその人を大事に思っているからだ。

自分の死後のプラスのイメージを持つ必要は必ずしもないにしても、それでも現代という時代においてそれを持つことが出来れば、それも大きな支えの一つになると思う。なぜなら、やはり「自分は何者で、どこから来てどこへ行くのか」はいつの時代でも人間の最大の関心事の一つであると思うからだ。だが、どのようにして自分なりのそれを持つことが出来るのだろう。

ヒントになる作品として『少女終末旅行』を挙げることもできるだろうか。少女二人が、終わりを迎えた世界の中で、残された時間でその頂上まで旅をする話だ。しかし悲壮感はない。二人は死にゆく世界であっても、生きる喜びは消え去らないと信じていた。ここで描かれていたのは人間はどのような状況でも幸福に生きることが出来るということだった。


https://altermyth4.com/shojoshumatsu/
僕が一番最初に書いたアニメ感想。

頂上に通じる真っ暗闇の最後の階段を二人は昇る。それまでの過程で何もかも失っていた二人が感じたのは、世界の全てと繋がる原初的な一体感であった。これは原始仏教的な描写であり、この体験は二人の死の恐怖を大きく緩和させたのではないかと思う。同時に、これは僕が経験したことがないから妄想になるけど、この体験は二人の死の恐怖を緩和させただけでなく、死後も世界の全てと繋がるという安心感をも与えてくれたのかもしれない。それならこれは二人の死後のプラスのイメージであり、ヌミノーゼ的な体験によってそれを獲得した、とも言えるだろう。なぜ二人はそうした体験が出来たのか、それは意識的に得ようとしたものではなく、二人の根底には世界がどんなに最悪でも生きる喜びは決して失われないと信じていたことが重要だと僕は考える。その上で頂上への道を、様々なことに小さな幸せを見出しながら歩んでいった。その結果、最後の一歩前で幸運にも体験した事だったのではないだろうか。つまり、体験できたのはほとんど運だけど、それを引き寄せたのは信念とか意志とかいう確固たるものがあってこそであり、それがあっても体験できるとは限らないけど、それがないとこうした体験はまず起こりえないと考える。


念のために書くけど、ここで重要なのは死後の世界よりも意識の方であり、それは「このように生きると自分は確信している」「これが自分だ」と言える意識の事だ。そして、それを信じているのは不特定多数の集団や社会、国家ではなく、個人、あるいは親しい友人二人などの、特定の単位でのことだ。カルト宗教と混同されることを僕は危惧するけど、現代という時代によって失われたものを求めようとする姿勢は共通している。しかし両者は全く異なるものだ。カルト宗教はむしろ現代の政治の世界に似ている。彼らは自分たちを絶対的な善とし、対立するものに己の悪を投影して排斥しようとする。この前提には何らかの理由で意識が弱まり自我をコントロール出来ていないこと、また同様に何らかの理由で不満や絶望、怒り、嫉妬などの負の感情に囚われている、また自分が不当な立場に追いやられていると感じている、などがある。このような状況では集団心理に感染しやすくなり、それが極端に進むと最悪の場合に魔女狩りやナチズムのようになってしまう。だが少女終末旅行の二人の信じる道はそれとは真逆だ。少なくとも、彼女らは自分たちの生の充実だけに満足し、そのために誰かを排斥しようとはしていない。それはフリーレンも同様だと僕は思う。魔族と言う存在についても、これは昔話で言う鬼に近い存在だと思うため、別問題と考えて良い。

信じるという事には大きな価値がある。しかし僕は自分の死後の世界の存在については、科学や合理的な社会の影響もあり信じることが出来ない。今では信じることの価値は下落してしまった。僕は科学や合理性の利点を疑ってはいないものの、それらは自分から進んで信じて得たものではない。それが慣習となっている世界で生きている内に、いつの間にか自然と身に付いていたものに過ぎない。


個人は社会の常識や価値観といった土台の上で形成され、その際にその人が本来持つ性質もその社会に不要であれば捨てられていく。


そのため、捨てられた方に自分の生を納得させるものがあるのなら、それをもう一度取り戻す道を進んでみることも必要なはずだ。フリーレンにとってはそれが人間を知るということだったのだろう。彼女の人生にとってそれはこれまで必ずしも必要なことではなかった。しかしヒンメルの死の際に強く後悔したことで、それが自分にとって「本来的に大事なもの」だったと気づき、その道に進もうと決心した。


僕は科学の影響もあり、自分の死後の世界を合理的に処理して信じることが出来ない。しかしそうした影響とはたぶん無関係に、親しい人は死後には天国やあの世で楽しく暮らしてなきゃ困ると強く感じる経験的事実がある。この二つは僕の中では矛盾せず調和している。この経験は僕だけでなく多くの人にも当てはまる一般的なものだけど、少女終末旅行の二人のように信じることの価値を大事にした上でその道を進んだ果てに、自分だけの自分の死後のプラスのイメージを持つことが出来る場合もあるのではないだろうか。たとえそれが難しい事だとしても、少なくとも、その方法以外に得ることは出来ないだろうと僕は思ってる。今のカトリック教徒の多くは神による創世を信じているだけでなく、宇宙のビッグバン説も受け入れていると聞く。その逆をするようなもので、科学的世界観の上に、同時に自分の死後のイメージを持ってみるのはどうだろう、という考えだ。


それは結局願望に過ぎないかもしれない。それにヌミノーゼ体験なら何でもいいわけでもない。しかし、今の僕に出来そうなのは、自分の信じることの価値を大事にした上で、そうした道を進んだ果てに、自分の生の納得に繋がるきっかけがあると、都合よく信じてみることくらいだ。そのために、こう問うことも出来るだろう。自分の胸の中に、静かだけど熱い火は燃えているか?と

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