異界の物語【君たちはどう生きるか】

君たちはどう生きるか

この映画はどういう映画なのか、について僕が思っていることを。

ストーリー自体は単純明快なもので、いなくなった夏子を探しに異界に行って連れ戻す話です。そしてアニメーションで表現された世界観はとても美しく、それだけで僕には十分なものに思えます。映画を観た子どもたちの中には楽しかったという声もあったことを聞きました。


しかし、宮崎駿作品は多義的な描写がいくつもあるため、今作もまたその意味を読み解こうとすると難しいところも出てきます。僕にそれを語る資格があるとは思えないけど、それについて日頃から思っていることを取りとめもなく書こうと思います。


まずはジブリ作品や児童文学などで舞台となることも多い「異界」について

異界へ行くとはどういうことか


異界は昔から神話や童話などの物語において描かれていることでよく知られています。


日本神話では、カグツチを産んで命を落としたイザナミを連れ戻しに黄泉の国に行ったイザナギの話や、スサノオの統べる根の国へ行って妻と宝を得たオオアナムジの話、海の底に行ってやはり妻と宝を得て地上に戻る山幸彦の話などがあります。


イザナギの場合はタブーを破ったことでイザナミを連れ戻すことに失敗します。同様のモチーフとしてギリシャ神話のオルフェウスの話も知られています。他の二人は成功した話で、前者は大黒主となり、後者の孫は初代天皇になります。こうした異界から妻と宝などを得て帰還する話は世界各地で存在し、西欧の英雄神話の場合はここに竜や化け物などを退治する要素も加わってきます。


異界の物語は、様々な試練、苦難を経て宝を得て地上に戻ることで異界へ行く前の時よりも成長して能力が高くなって戻ってくる形になっていることが多いため、異界の物語とは再生の物語でもあります。


今作で言えば、眞人が夏子を連れて戻って来た時には、彼の心の傷や悪意といったものが癒された事で薄れ、また他者に共感し受け入れていくといったように彼は再生し、成長しています。異界の話を現代で描く意味もそこにあるでしょう。

異界の話を観ることで得るもの


現代において神話や昔話、また宗教は人間の意識が発達し知性が向上したことで受け入れられなくなり、その生きた力を失ってしまいました。

しかし、文明の発達した時代においても多くの人々の生はそうしたものがなくては、人生の意味や日々の充実、また死後についての安心などを得ることが出来ないのは昔から変わっていません。むしろ知性や文明の発達によってそうしたものを得ることが難しくなっています。


しかし逆に言えば、僕らのこの時代こそ他の時代よりも発展した人類に見合うより優れた何かを得る機会にあると捉えることも出来ます。尤もそれは他の時代にはなかった世界全体の文明崩壊の危機という切羽詰まった状況と隣り合わせのためでもありますが。


優れた芸術作品は僕ら一般の観衆の眼を普遍性、始原性の方向に開かせることが出来ます。僕らは普段は生活人、行動人であるため、物事を分別してレッテルを貼ってという風に、なかなか物事の本質まで見極めようとする機会を持つことが出来ません。芸術作品は、人々に人類普遍の宝を発見できるようにする効能を持つ、あるいは少なくともその入り口までは連れて行ってくれます。それが自分にとってどのような意味を持つかは各人の努力によります。


僕らは何か根源的なものを持たなくては、いざ政治や経済、社会の状況が悪化した時に踏みとどまることが難しくなります。根源的な不安を抱えたままでは行き詰まりを感じ、絶望的な状態に陥りかねません。今作の時代はファシストが世界中で猛威を振るっていた時代であり、それはインコたちとしてデフォルメされているところもありました。現代でも様々な要因から潜在的だったナショナリズムが賦活化され、そこから発展した争いが世界各地で勃発しています。それは政治路線の相違や経済的利益を目的とした争いよりも凄惨なものになる傾向にあります。僕らには政治、経済、社会的状況を改善していく必要があるのと同時に、それらを根本的に解決するには僕ら自身の意識が改善されなければなりません。つまり誰かを憎んだりする僕の心自身が変わらなければならないので、それには僕自身が、また各人それぞれが固有の物語を持つことが必要でしょう。悪意を持つ世界の中で生まれた僕たちはペリカンのように犬死にしていく。そうした中で君たちはどう生きるか。それがこの映画を宮崎駿が作った理由の一つでもあると思います。

宮崎駿固有の神話


芸術作品が普遍性を持ち、それが万人の眼を開かせるのなら、それを作る芸術家もそうした普遍性に到達していなければなりません。つまり今作の世界観の普遍性と独自性は宮崎駿の個性や彼の持つ神話の反映と見ることも出来ます。普遍性と独自性が両立することは矛盾しません。彼は強い我を持ちながらそれを不断に克服していったのでしょう。高畑勲監督の平成狸合戦ぽんぽこの権太のモデルにされるなど激しい気性を彼は持ちます。人間を恨んで特攻して玉砕した権太のような凶暴的な力が映画の中に垣間見えることもありながら、しかしそうした我よりもさらに大きな何かによって調停され解決の方向に向かうような形を彼の映画は取ります。


彼の創作は意識ではなく無意識の側から、つまり映画自身が映画の形になろうとし、それを宮崎駿が手伝う、奉仕するという形を取っていました。それは意識する自分が自分の中心ではなく、もっと別のものが自分の中心にあると彼が捉えていたことでもあります。こうした創作タイプはユングが分類するところによれば外向的タイプであり、今作のような作品は幻視的な作品とすることも一応できるでしょう。とは言ってもそれは意識を軽んじるということではなく、むしろ彼はまず意識を極限まで追い詰めなければならないということを自覚していました。意識だけでは足りず、しかし無意識に負けてもならずという緊張関係によって作品に独自性と普遍性が現れているのかもしれません。


そしてまた、宮崎が自然の根源を憧憬していることや「海の世界」という始原的な世界に回帰するという今作の描写などから、彼は永遠の少年という元型タイプでもあると思います。この元型は現代社会では一般的に否定的な意味合いで捉えられることが多いです。しかし、ユングやノイマンはこの元型は芸術家の場合は肯定的な意味を持ち得ると述べています。始原を憧憬する彼こそが人々の眼を始原の方向に開かせることが出来る、人々の気が付かない時代の盲点をアウトサイダーの側から補償することが出来るのでしょう。


今作のヒミが眞人の母であり、同時に少女であることも、またナウシカが少女であり、同時に人々の母であったこともそうしたことと関係しているかもしれません。尤もこれは宮崎駿が幼少期に母にあまり構って貰えなかったことも関係しているでしょう。こうした少なくとも二つの理由、すなわち個人的理由と超個人的理由があると思います。林道義によれば、母となっても永遠に若い処女というイメージを持っている男性は強く母を求めており、無意識の中での母との結合が強いと言います。他方でユングは、その人のアニマが少女である場合はその人の精神が成熟している証拠と述べていました。


映画の中では母親元型から派生したアニマであるヒミに助けられたり、また母親元型の否定的側面である墓の主や石の主によって危機に陥ったりします。そうして塔の頂上、楽園にいる謎の老賢者である大伯父のところに進んで行きます。そうした一種の通過儀礼を越えていく眞人の旅は、同時に宮崎駿自身の心の中の旅でもありました。


亡くなった人たちは地獄でも天国でもなく「またどうせ会う」「それはアニミズムとかいろいろなものと繋がってることだと思う」「おふくろに会うなら最後の年寄りの時よりも若いおふくろに会ってみたい」「あんまり無理なく昔の人はもってた考え方なんじゃないかとは思います」と2008年時のインタビューで宮崎は述べています。


キリコや大伯父なども身近で亡くなった人にモデルがいるそうです。ワラワラの輪廻転生は大昔から人々の間で無理なく信じられていた思想でした。彼の年齢と、長年のアニメーション制作で鍛えられた想像力が発揮された今作は、そうした努力の果てに辿り着いた彼の神話の一つの表現ではないでしょうか。知性と信仰が調和し、また因果律ではなく、発達した意識でも無理なく信じることが出来る独自な物語。この映画はそういうものだと僕は考えています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました