海の世界について【君たちはどう生きるか】

君たちはどう生きるか

海の世界についての雑感です。

集合的無意識の世界


海の世界は端的に言えば再生の異界=通過儀礼の場所=宮崎駿固有の神話世界でした。


劇中においては眞人が大人になるための成人儀礼の意味合いが大きいと思います。それは死の旅であるため、墓の主や石の主といった死者を喰う怪物を退けて、そうした冥府、聖域を通って再生への儀礼が行われていきました。ヒミや大伯父といった肯定的な存在との邂逅も、眞人が影を自覚するという全体性の獲得、自己認識につながるものでした。


この再生、生まれ変わりは、古代や未開社会の祭儀やあらゆる宗教の参入儀礼の目的でした。エリアーデによれば、宗教が人間に信じられなくなった現代においても人間存在の深層においてはその機能は全く失われていないと言います。


ユングは、通過儀礼の象徴表現は現代人の無意識の領域の中に生き続けていると述べています。


無意識とユングが言うのは、フロイトの言う個人的無意識のさらに下の深い層のことを言います。宮崎駿が“意識の下にある無意識のさらに下方にあるところ”と言っているものもおそらく同じものだと推測します。ユングの「集合的無意識の諸元型について」という論文にはこのように書いてあります。

「この層はもはや個人的に経験され獲得されたものではなく、生得的なものである。このより深い層がいわゆる集合的無意識・・・・・・である」

「水は無意識・・・を表すために一番よく使われるシンボルである」


ユングのこの論文では影の門を通った先に集合的無意識の水の世界があり、そこで生命はフワリフワリと浮いているとされ、その後に漁師の話やアニマの話、老賢者の話と続いていきます。安易にユングの話と創作の内容との共通性を見出すのは危険だとしても、本作が幻視的な性質を持つものであり、創作者の制作姿勢が能動的に無意識を取り込むものであり、かつ過去の作品にもそうしたものが見られることから、ある程度ならばそこに共通性を見出してもいいと思いました。


眞人は塔のホールで自身の影、サギ男と対決した後、そのホールの床から海の世界へ沈んでいきます。

「深みへの下降はつねに登行の前ぶれである」


ユングは、影は無意識への門だと言います。自身との出会いが最初の試練であり、その困難さは自身の弱さを直視することの耐え難さにある。人は好き好んでそんな不愉快な事を始めたりはしない。しかしそうした弱さが人間の永遠の体験、永遠の問題であるなら、その限りにおいて永遠の答えも同時に存在しているはずだ、と主張しています。人間が知っていることはごくわずかであるため、無意識の活躍する余地がたくさん残されているそうです。

「影とは細い小道、狭き門であり、深い泉の中に降りていく者はその苦しい隘路を避けて通るわけにはいかない。つまり自分が誰であるかを知るためには、自分自身と付き合ってみなければならない」
「その門を通り抜けると、思いもかけず、途方もなく曖昧模糊とした無限の広野に出るが、そこは内でも外でもなく、上でも下でもなく、こちらでもあちらでもなく、私のものでも君のものでもなく、善でも悪でもないように思われる。そこは水の世界であって、その中では生命いのちあるものはすべてフワリフワリと浮いており、そこから「交感神経」の国、すべての生命あるもののこころゼーレの国がはじまり、そこでは私はこれでもありあれでもあって区別しがたく、また私は自分のうちで他人を体験し、私とは別の人が私を体験している」



この「無限の広野」である「水の世界」は作中の海の世界とよく似ています。フワリフワリと浮いている生命はワラワラを彷彿させます。眞人が塔に入った時に入り口の天井から書架の扉が降りてきて、その扉の上部の青サギのレリーフからサギ男が立体化して現れた描写も、門や通路としての影の特徴を思わせます。


その後、魚を釣る漁師の話があり、それは聖杯伝説と同様かつその伝説よりも昔から見られるものだと言います。キリコさんも死者には取れない魚を取り、それを死者やワラワラたちに与えていました。この魚はひょっとしたら聖杯と同様の宝を意味するかもしれません。


次に、人間の意識の薄明の時代から存在していたアニマの話になります。彼女はこころゼーレであり、我々の背後にあって生命を生じさせる存在だと言います。アニマは意味も法則もない生命であり、文明人にとっては恐怖の的のため防御の対象になっているそうです。これは石の主や墓の主などにあたるでしょう。


また、アニマはゲーテの『ファウスト』に示されているように光の天使として、魂の導き手としても現れ、最高の意味へと導くこともあると言います。こうしたアニマはヒミに近いと思います。


そうして、生の元型アニマの話から意味の元型である老賢者の話になります。この魔術師もアニマ同様に不死のデーモンであり導き手であり、彼はただ生きているだけという混沌とした暗闇を意味の光で照らし出すと言います。これが大伯父でしょう。


以上から、作中の海の世界や登場人物たちが集合的無意識の世界の内容と類似していることは明瞭だと思います。眞人の旅は、現代人の無意識の領域を描いたものでした。

宗教的体験の場所


眞人が旅した海の世界は現代人の無意識の中で生き続けている神話的世界でした。ユングは、そうした通過儀礼的な象徴表現はしばしば個人の運命を決定するような人生の一時期において見る「大きな夢」として生じると言います。


「大きな夢」は未開社会の人が「小さな夢」と分けていたもので、現代人から見ればそれは「意味のある夢」と「意味のない夢」になると言います。この「大きな夢」は意識の一面的な生に対し内部の普遍的な人間的本質の側から修正や補償が生じ、全体性を獲得して個性的になっていくという個性化過程を表しているようです。


その心理的構造として、人は精神的に圧倒される他者に出会い、この圧倒的な者はどのような現れ方をするにせよ人間の全人格に挑戦し、全人格をあげての応答を強いるとユングは述べています。こうした圧倒的な者を意識的な自我意識よりも上位に位置する自己の元型とし、またこうした体験は宗教的体験と呼ばれているそうです。


ユング自身も彼の夢の中に現れたエリアやフィレモンといった自己の元型の一つである「老賢者」と長期にわたって対話を続け、多くの深い智慧や洞察を得る体験をしてきたと言います。


ノイマンは、トーテミズムと参入儀礼の基本的な出来事は、トーテムまたは先祖が参入者の中に再生し、彼の中により高い自己を形成することにあると述べています。オーストラリアのアボリジニの夢の時代などもこれに該当するでしょう。こうした先祖との遭遇が、劇中で眞人が老賢者である大伯父と出会うという形で描かれています。そうした先祖の再生は始原の楽園への回帰をも表しています。ヒミを運ぶインコマンが大伯父のいる庭園に来た時に、そこで飛んでいるインコを見てご先祖様だ、天国だと感嘆の声をあげていました。


尤もユングはもともと幼少期から不思議な体験をしてきたことから常人よりも遥かに感性の豊かな人だったのでしょう。ネイティブ・アメリカンのシャーマンになるような人もおそらくこのような感性の持ち主でした。そうしたものは芸術家も持っていて、彼らは僕らと自然との間に存在する一つの帳を撤廃し、僕らにそれまでかつて一度も見た事のなかった景色を見る契機を与えてくれます。


そして、実はそういったものは特別な人たちだけが持つものでもなくて、例えば子どもたちは皆そうした世界に生きているのかもしれません。

「森を大事にしたり、川をきれいにしたいのは人間のためだけではなく、それ自体に生命があるものだからという考え方のほうに心をひかれます。幼い子供達にはそういう気持ちがもっと自然にそなわっているのだと思います。自分の子供達の話ですが、古くなって水のもるお風呂を壊すとき、ふたりが「お風呂がかわいそうだ」と言い出しました。古いお風呂が、子供達にとってはたましいのような人格のようなものを持っていると感じていたからでしょう」

『折り返し点: 1997~2008』宮崎駿



これはブッシュソウルを持つ未開人の世界と酷似しています。その世界では人間は動物や木々と結びつき神秘的同一状態にありました。これはユングの言う個性化過程の結合状態や日本の禅などの積極的な瞑想状態などの肯定的な意味合いとしての神秘的融即状態だと思います。しかし現代ではそれは失われ、ブッシュソウルが生み出していた情緒的エネルギーは無意識に沈んで行ってしまい、方向喪失の時代に陥ったとユングは述べます。しかしそれは意識が発達した大人の問題であり、子どもは別です。


ノイマンの『グレートマザー』よれば、人間文化の初期状態では、人間・動物・植物・無機物を区別して認識していなかったと言います。そこから動物や植物との起源的関係や血縁的関係といった結びつきが見られると述べていました。彼は芸術論『芸術と創造的無意識』の中ではこのように述べています。

子ども時代には、まだ人格的なものと超人格的なもの、近いものと遠いもの、内なる心と外の世界との分裂はなく、生命の流れが断たれることなく流れ、神と人間と動物と世界は、親しみ深い多彩な輝きの中に結びついている



宮崎駿が子どものための映画を作り、子どもたちを何よりも掛け替えのない存在として大切にしている理由の一つには、こうした誰もが持つ子ども時代がどれだけ特別な時期であるかを痛感していることにもあるのではないでしょうか。子どもたちは時間のない神の世界にいる。
しかし、僕たちは一瞬で成長してしまいます。楽園からの追放は早い段階でやってくる。芸術家は僕らに失われたその世界を垣間見せてくれます。僕たちはその世界を初めて見ると思っているものの、本当は意識の発達のために、いわば忘れ川の水を飲んでいるために覚えていないだけなのでしょう。


とはいえ、そうした世界が大人になった僕らに全く縁がなくなったわけではありません。先ほどのユングの言う夢や芸術作品以外にも身近な体験があります。


ノイマンは重要な性質を持つ人生の節目は個人的な枠組みを超えた集合的で超個人的なものとして体験されると述べています。それが持っている情動を揺り動かす聖なる力は個々人の生の内奥に達するとし、「誕生と死・さらに成人と結婚や子供の誕生・は人類においてはつねに「神性」」だと言います。


同様の事を宗教学者の脇本平也も述べていて、人生には重大な意味を持つ折目節目があり、その時点ごとに宗教的な行事が営まれ、これを通過儀礼と呼ぶとし、それは「誕生前後のさまざまな行事、七五三の宮参り。成人式あるいは入社式、結婚式、そして葬式」やその間に入ってくる「厄年のはらいとか寿の祝い」などがあるとし、それは社会において年中行事が暦に従って定期的に催されるのと同様に「個人の次元においても、その生活にとって重大な意味をもつ時点が宗教の場になるということを、通過儀礼は物語っている」と述べています。また、それとは別に臨時的突発的に個人に襲いかかる重大事をめぐり、宗教的営為が現れる事もあるとも述べています。


いずれにしろ「個人の生命にとって重い比重をもつ局面や段階が、個人の次元での宗教の場になる」とのことで、そういう場は俗なる時間や空間とは区別された聖なる時間と空間に当たり、人がそうした場によって困難を乗り越えて行こうとする理由は、人間のいのちのエネルギーや衝動に促されてより充実した生命を獲得したいためであり、聖なるものはそうしたいのちの拡充を与える存在だということでした。


ユングの個性化過程の目的もそうした宗教的体験との違いはありません。彼によれば、生きとし生けるものは全て全体を求めるものだと言います。彼の言うリビドー、心的エネルギーとは生命エネルギーのことでした。

思えば宮崎作品の多くはそうした宗教的体験を描いているのかもしれません。

『風立ちぬ』の婚礼の儀では、その空間は戦局や菜穂子の病気などの日常のこととは切り離されたものであり、闇夜に風花が舞う美しい菜穂子の姿は二郎の眼を通して描かれていたものでした。

今作を振り返ってみれば、眞人は子ども時代の終わりという節目の年齢であり、そこに母の死や父の再婚、新しい家族、戦争による疎開など様々な当人にとっての重大な出来事も合わさって「運命を決定するような人生の一時期」に当たります。そうした時期に、そうしたことを乗り越えたいという彼の内奥の衝動が、彼にサギ男や海の世界、ヒミや大伯父といった日常では何の接点もない神話のような世界や人物たちと邂逅させ、彼らとの関わりを経て困難を乗り越える力を得て帰還します。こうしたストーリーは『千と千尋の神隠し』に似ています。

おわりに


…と、ここまで宗教的体験について書いてきて今更思ったのが、宗教について僕たちはどのような共通の見解を持っているのかということでした。上記で書いてきた宗教は、既存の特定の教義としての宗教、例えばキリスト教やイスラム教、仏教、またヒンドゥー教などを必ずしも意味せず、もっと素朴な、日本人が自分たちの事を無宗教と言ってしまうくらいには忘れ去られたこの島固有のアニミズム的な宗教心のことを主に念頭に置いたものでした。


しかしSNSなどを見てると、例えば宗教的対立によって生じた事件のニュースに対して「こういう争いの原因になるなら宗教なんてない方がいい」というコメントを見ることが出来ます。これは日本人の僕らには共感しやすいものでしょう。しかし僕は宗教とは人間が本来的に持つ構造、機能であり、それがあるからこそ人間は何かを信じ、またそれによって個々人の生を充実させるものだと思っています。また現代における宗教的対立と一言で言っても、そこには政治指導者の意図や経済的な利己心、歴史的な諸問題や言語の違いなど様々にあるため、宗教だけが対立の原因とは思えない、という話を始めるともう今作の映画の内容からだいぶ離れてしまうため別の所でつぶやくことにします。


それはともかく、宮崎駿がこのような宗教的体験を描いた映画を作ってきた理由は、子どもたちにそのような映画的体験をしてほしいという願いもあると思っています。そのことが眞人が流れ星の降る丘で拾った石を現世に持ち帰って見つめるというラストシーンにつながっているのではないでしょうか。もしかしたらその石は錬金術で言うアルカヌム、永遠の水、賢者の石だったりするのかもしれません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました