インコマン【君たちはどう生きるか】

君たちはどう生きるか

気が付くと鎖につながれていた眞人。

今夜はごちそうだとばかりに目の前で包丁(牛刀)を研いでいたインコマンが、眞人が目を覚ましたことに気づくとウインクなんかしたりして、その後また何事もなかったかのように研ぎ始めます。


まぁ大変恐ろしいシーンではある


でも石の塔内の生活居住区で彼らが意外とひょうきんでお茶目な様子を見せていたので、このシーンは僕の好きなシーンの1つです。最初に鍛冶屋の家で眞人を待ち伏せして食おうとした時は「人情などわからぬ魚類か毀した家のコンクリートブロックのような表情」に見えたけど。

パンフレットによるとインコたちは大衆の劇画とされています。この大衆とは主に当時の全体主義という、指導者に従って国家の権威を自らの欲求に利用する独裁体制下の大衆を表していると言えるでしょう。それを端的に示している描写があります。インコ大王が大伯父の所へ行く時にインコたちが居住区で歓声を上げながら掲げているプラカードには「DUCH!」と書かれていて、これは絵コンテによるとイタリア語で統領の意味だそうです。これについては既に映画が公開された年に指摘している人もいました。イタリアのムッソリーニの他にも、例えばイタリアから帰国したクロアチアのファシスト集団ウスタシャのパヴェリッチもDUCHに相応する称号があったので、やはりインコたちはそうした集団をモデルにしている部分もあるのでしょう。


絵コンテによれば、インコたちは歓声を上げながらガラスケースの中で気を失っているヒミを殺せとか物騒な事を叫んでいるようです。こうした殺戮と狂気に取り憑かれたようなインコたちは、やはり当時のドイツやイタリア、またあまり認めたくないけど日本の国民などの状態を表しているのだと思います。皆が皆そうではないけど、上からもたらされる主観的な言葉にカタルシスを覚えたり、服従の精神が蔓延んだことで個人の責任感より義務の観念を優先するようになった人が多くなりました。それでもインコたちが個人個人ではお茶目だったりユーモアがあったりと人間らしさを持っていたように、僕らが残酷だと思うような行為をした当時の人たちも当然そうした人間らしさを持っていた部分もあったに違いありません。そうした人たちがちょっとアホっぽいユニークな造形にされたことで僕は映画を観ている時は全く辛い思いはしませんでした。これもアニメーションの良いところです。なお、インコを飼っている人から不評が出たのは言うまでもない。

宮崎駿は2006年の頃に、吉野源三郎の小説『君たちはどう生きるか』は“どんな大変な時代が来ても人間であることをやめないで生きなさいということしか伝えていない”と述べています。これは殺戮と狂気のような時代が再び来てもインコマンのように正気を失ってはいけないということでしょう。宮崎駿はまた、彼が敬愛する児童文学作家のロバート・ウェストールについてこう述べています。「凶器と憎悪の時代の中で、いかに正気を持って生きるかを伝えようとした作家であり、重い内容をつつまず読者にぶつけながらしかし、生の意義をしっかり中に握りしめ続けていた人である」
こうした思いは今作に限らず宮崎作品には通底していました。

インコマンたち、つまり全体主義が当時世界中で現れた理由は、心理学者ユングによればこれまでの傾向の反動が背景にあるとのことです。西欧において知識と信仰が両立していた時代が過ぎ、科学的、合理的な考えが主流になってヘーゲルあたりから理性による驕りが目立つようになり、その西欧の結末はナチズムの崩壊以前にニーチェの悲劇として先に現れていたと彼は見ました。


確かにナチズムの差別的な思想は何も彼等だけの専売特許ではなく、ルネサンス期以降の自然科学の進歩に伴い人々は自由の観念を持ち始め、合理的な考えを持ち始め、それは人々を傲慢にしたのでしょう。そうした彼らが航海技術向上によって世界に進出し始めて植民地支配を行いました。ユングが「西欧の結末」と言ったのは、おそらく近代的でロマン主義的なナショナリズムを持っていたのは当時のドイツだけでなく多くのヨーロッパ人もそうであり、彼等もまた侵略、差別、虐殺をしてきたということから目を逸らしてはいけないということなのでしょう。民族浄化にまで至る凄惨な出来事の責任はその国やその指導者だけでなく全欧州の責任であると。そしてそれは現在でも世界各地で起っている紛争の遠因の一つでもあります。


そうした問題は何も国外だけのものではなく、日本でも日清、日露戦争に勝利したことから驕り、他者他国を蔑視するような言動が目立つようになり、昭和になると統帥権が独立、増大して太平洋戦争では敗戦に向けて進んでしまいました。その過程で僕ら日本人がどれほど愚かなことをしたのかは僕らが知っている通りです。日本人には誇れる素晴らしい話がたくさんあるだけでなく、そうした愚かな話も当然無数にあることからもまた目を逸らしてはならないでしょう。なぜならそれらは僕らの影、潜在化しているインコたちだからです。それを意識化することはけっして僕らを貶めることを意味しはせず、むしろ僕らが自分たちの分身をコントロールしやすくなることを意味します。

現在は当時よりもますます個人主義的な傾向が進み、都市を前提にした文明を築いています。宮崎駿は、これまで善としてきた生産や発展が文明の滅亡に繋がるという現象が地球規模で起っており、さらに自然を破壊し文明を滅亡させる者たちは悪者ではなく善人であるところに人間存在の本質に関わる問題があると述べています。誰もがそのような根源的な不安を持つものの、それを胡麻化したまま不安の種を別のところに見つけてすり替えていると。その時にもしも何かに対して無意識的に攻撃的になっている場合、その表情は眞人が見たインコマンみたいになっているかもしれません。

余談ですけど、齋藤幸平の『人新世の「資本論」』を最近読みました。そこには僕が目を逸らしたい事実がまとめられていました。先進国の資本主義の国民のライフスタイルはグローバルサウスの人々の生活条件の悪化を前提にしていて、僕らが大量生産、大量消費という豊かな暮らしをしてきた結果、プラスチック問題、温暖化、気候変動などを引き起こし、それらは社会的紛争や難民問題の理由の一つになっていると。グローバルサウスへの外部化や転嫁が困難になると自分たちのところへ全て帰ってくるということでした。人々の間に危機感や不安が生じると右派ポピュリズムは排外主義的ナショナリズムを扇動するだろう、と。


彼によれば、当時マルクスはイングランドによるアイルランド支配を批判し、イングランドの労働者たちはアイルランドの抑圧された人たちと連帯し、後者の解放によってのみ前者も解放されると述べたと言います。そして斎藤は現代においてはグローバルサウスにこそ先進国の問題の解決につながる梃子があるため、彼等から学ぶ姿勢が大事だと言います。


先進国の人は悪者ではないと僕らは思います。しかしそれはグローバルサウスの人たちには通用するでしょうか。どうもそうは思えません。彼らが僕を見たら、僕の個人的な性格とか個性とかは無関係に、インコマンの表情のように不気味に見える時もあるだろうと想像します。映画のラストではノアの大洪水の神話のように大伯父の海の世界が崩壊しました。結局インコたちの多くは生還しましたけど、もしも僕らの多くが今後も存続しようと思うなら、この映画のように僕らは今の世界の在り方を一度捨てなければならない時が来るのだろうと思います。

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