君たちはどう生きるか 感想 200字まとめ

君たちはどう生きるか

映画を観て気になったことについてそれぞれ200字でまとめたものです

この映画はどういう映画なのか


いなくなった夏子を異界から連れ戻す話。神話や昔話で描かれる異界の物語は、様々な試練、苦難を経て宝を得て地上に戻ることで異界へ行く前の時よりも成長して能力が高くなって戻ってくる形になっていることが多い。そのため異界の物語とは再生の物語。今作で言えば、眞人が夏子を連れて戻って来た時には彼の心の傷や悪意といったものが癒された事で薄れ、また他者に共感し受け入れていくといったように彼は再生し、成長している。


この映画の性質と宮崎駿の創作タイプについて


彼の創作は無意識の側、映画自身が映画の形になろうとし、それを彼が手伝うという形を取っていた。これは外向的な創作タイプであり、今作は特に幻視的な作品だ。また彼が自然の根源を憧憬し、そこへの回帰が描写されていることから、彼は永遠の少年元型のタイプだと思った。現代社会では否定的な意味合いで捉えられることが多いこの元型は、芸術家の場合は人々が気づかないことを補償することが出来るなど肯定的な意味を持ち得る。

眞人


母を失い疎開し、馴染めない環境で頭部を自傷した神経症の少年。様々な状況が重なることで衝動的な行為をした彼はおそらく生まれてきたことを否定的に見ていた。同時に、彼の抱える閉塞感や行き詰まり、不安や不満は多くの現代人が抱える根源的な問題でもある。眞人は己の影であるサギ男と対決し、共に奇妙な旅をしていく中で己の悪意を自覚する。それは、都市化への変遷の中で存在の根を失った現代人の自己認識の物語でもあった。

大伯父


眞人を導く老賢者であり、宮崎駿が持つ二人目の父親像だと想像する。ユングにとって実父とは別にフロイトがもう一人の父の役割を持ったように、若い頃の宮崎駿と反りが合わなかったアナーキーな実父とは別に、本作においては高畑勲がモデルの一人としてその役割を担っていると思う。時代の主役が老人から若者へ移行する普遍的なモチーフは、参入儀礼では先祖が参入者の中に再生し、彼の中により高い自己を形成することを意味する。

ヒミ


少女の姿の眞人の母親であり本作のヒロイン。神話ではヒロインが母や姉妹であることはよくある。日本神話のイザナミやエジプト神話のイシス、ギリシャ神話のヘラや聖書のイヴなど。ユングによれば神話のそれは、生命がそこから生まれてまた還っていく母なるものというイメージへの回帰願望を表しているらしい。宮崎は始原を憧憬する芸術家タイプとしての永遠の少年タイプ。アニマが少女の姿なのは宮崎の精神が成熟しているため。

夏子


眞人の継母であり、実母と瓜二つ。童話や昔話の中の継母は元型的な悪の役割を担うことが多い。本作においてそれは石の主の墓所の産屋の中で鬼のような表情で否定的な本音を吐き出しているシーンとしても描かれている。同時に夏子は眞人が異界から連れて帰るかけがえのない宝、アニマでもある。二人の母や父というイメージは普遍的な観念であり、それは、人間が一度死んでから再生する時には二組の親が必要という観念から来ている。

サギ男


眞人の心の悪意を見抜く謎の人物。ジョン・コナリーの『失われたものたちの本』の冒頭のねじくれ男に類似するものの、それ以降は全く異なる。ねじくれ男が邪悪な存在だったのに対しサギ男は善悪併せ持つ。また人間臭い点は眞人の性格とも対照的だ。彼は眞人の影であるため、眞人は彼の力を奪うだけでなく返す必要もあった。それは眞人自身の力でもあるためだ。相容れない者と友になるのは心理学では自己の統合、個性化を意味する。

インコマン


最初は不気味に見えたけどお茶目な仕草も見せる。戦時の独裁体制下の大衆の劇画。彼らがちょっとアホっぽくてユニークな造形のインコとして描かれたことで僕は楽しく見れたけどインコを飼っている人たちの心中はお察しする。現代は当時よりも文明滅亡の危機にあるためインコマンがいつ大勢表れても不思議ではない。いや、僕らが大量生産・消費の生活を享受することで抑圧されたグローバルサウスの人たちは僕らをどう見ているのか。


キリコ


海の世界では眞人と同じ個所に同様の傷を持つおばあちゃんズの一人。傷をつけた沼ガシラを喰ったということから、眞人の抱えるような問題を既に乗り越えた先達と推測する。彼女の服の柄には車輪が描かれていて、それは全体性を補償し、癒し、守るマンダラという自己の元型を意味することもある。墓の主から眞人を呪術で守ったり面倒を見たりしたのもキリコにそうした役割があるためだろう。泥人形のおばあちゃんズの結界も同様だ。

ワラワラ


眞人のところに食い物をたかりに大勢でやってきた何か白くて小さくて丸いものたち。滋養を得てこれから人間へと生まれる彼らは輪廻転生という古くから人々に信仰されてきたものそれ自体を表しているのだろう。宮崎駿は死後に先に亡くなった人たちと会うと考えていたため、彼は古代エジプト人のように二つの来世観を持っていると僕は思う。太陽が死んで再生する道は古代や未開の社会の人々が通過儀礼で得ようとしたものでもあった。

ペリカン


絶望しながら息絶えたもの、だが悪意を持つ世界の中で生まれた僕たちもまたペリカンのように犬死にしていく。そうした中で君たちはどう生きるか。それがこの映画を宮崎駿が作った理由の一つでもあるだろう。僕らは何か根源的なものを持たなくては、いざ政治や経済、社会の状況が悪化した時に絶望的な状態に陥りかねない。現代でも民族意識による争いが世界各地で勃発している。作中のラストではペリカンたちは無事に脱出していた。

大伯父のいる楽園


草木が鮮やかに茂り果物が実る庭。ヒミの棺を担う二羽のインコマンが庭の中を飛んでいる小さなインコを見て感涙しながら天国だ、ご先祖様だと述べていた。聖書のエデンの園、グノーシス主義のプレローマ。古代エジプト人が死出の最終目的地と考えていた供物の野やイアルの野。古代オリエントのギルガメシュが永遠の生命を求めてマーシュの山の暗闇を抜けて辿り着いた場所。シュナの旅やナウシカにも似たような場所が登場している。

海の世界


海の世界は再生の異界であり通過儀礼の場所。それは現代人の無意識の中で生き続けている神話的世界。子どもたちは未開人同様にそうした世界を生きている。大人の場合も人生の節目の時には個人の次元での聖なる空間の場として宗教的営為が現れることがある。大きな意味のある夢もその時に生じ得る。宗教的体験が起る理由は生けるものは全て全体を求めるためであり、人はより充実した生の獲得を欲して困難を乗り越えて行こうとする。

石の主


塔の地下の最奥の墓所にいる存在。その正体は産屋のカーテンに描かれていた火の怪物のような何かに示唆されている。支石墓や蛇、夏子の狂気からも、それはグレートマザーの影の側面であるテリブルマザーだと推測する。火を操るヒミが眞人を再生へ導くアニマ・ソフィアだったのに対し、火の怪物は眞人の旅を妨害する存在。怪物との対決は主に西欧の英雄神話として知られるものの、退治ではなく現世へ帰還することも同じ意味を表す。

墓の主


巨大な糸杉と岩座が聳える墓所にいる何か。キリコは石の主をやり過ごす際に眞人に振り返りを禁じている。これはイザナギやオルフェウスの神話を思わせる。日本の神は善悪両方を併せ持ち、イザナギを追うイザナミも元はグレートマザーの一部であり、これは石の主と同じくテリブルマザーを表すと推測する。キリコの居住する巨大な箱舟は墓所と同様にベックリンの死の島を思わせるものだったため、キリコと対照をなす存在と思われる。

契約の石


大伯父に海の世界を創世する力を与えた石。初期案では巨大な地球儀のような何かの中に大伯父がいた。その彼は悪者のような、胡散臭そうな造形だった。本編の大伯父は善なる者として描かれている。悪の要素は大伯父の隣で浮かぶ黒い禍々しい岩となった、つまり両者は同一の存在だと想像する。キリスト教の神は善なる愛の神でありながら契約した民に暴力を命ずる恐ろしい存在でもあったように、石も眞人に圧迫感をもって迫っていた。

大崩壊


石が砕け、大伯父は滅び、海の世界が崩壊する。海は出エジプトのように割れ、回廊もダリの絵のように歪む。その裂け目に呑まれて大伯父の積木は宇宙空間へ放り出された。あの宇宙はドルネウスの言う一なる世界だったのだろうか。キリコの居住する場所も巨大な箱舟だったことからモチーフは大洪水の神話だろう。この神話は太陽や英雄の神話同様に心理学では夜の航海神話と称され、無意識を意識化して再生、新生することを意味する。


ダンテの神曲の煉獄山を思わせる。その頂上の楽園でベアトリーチェと再会するも、そこは怪物も出現する場所だった。ダンテはさらに上空へと向かい、そこでマリアのいる白いバラに辿り着く。塔の頂上にいる大伯父も眞人がいるホールにバラを落としていた。また、錬金術のレトルトにも似ている。そこでは術師の心の発展過程が投影されていた。最後はタロットの塔のように崩壊するも、大洪水の神話同様に肯定的に捉えることが出来る。

眞人が拾った石


昼と夜の境の草原で眞人が拾った石。二年後のラストシーンで彼はポケットの中にあった石を見つめる。ル=グヴィンのゲド戦記にも類似の箇所がある。黄泉で全ての力を失ったゲドを腕に抱きあげたままアレンは苦しみの山を登り、その頂上の先の海から現世へと戻る。その後、彼はいつの間にかポケットに入っていた山の石を眺め、生まれて初めて勝利を知った。また、これは宮崎が子どもたちに願った映画的体験も意味するかもしれない。

 

この映画を観て思うこと


死という問題への向き合い方について何か示唆的なものがあると思った。ユングや宮崎駿は自分の死後に、先に亡くなった人たちに会えると当たり前のように考えていた。死後は無になるという考えはあくまで現代の通念の一つであり、それで満足できる人は多くないと思う。昔の時代のように宗教の永遠を信じることは不可能だとしても、知恵と信仰が乖離せずに調和するシンボル的な生、その人固有の神話を持つことは現代でも必要だろう。

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