前回も虚とは松陽を斬った銀さんの背負った業そのものの存在として少し触れた。銀魂最大の敵である虚とは何者だったのか。なぜ銀さんたちの前に立ちはだかったのか。
アルタナと人間の敵意から生まれた存在
虚について、洛陽決戦篇の最初に信女がこのように言っている。
「龍脈の力によって死ぬ事ができなくなった男 500年に渡り殺戮の日々を生き続けた男 あなた達の師吉田松陽とは血に濡れた500年の中で虚がこぼしたほんの一瞬の微笑みだったのよ」
『銀魂』空知英秋 集英社 554訓
龍脈(アルタナ)とは星の生命力のことであり、銀魂の世界観を象徴するような中央にそびえるターミナルは、天人がその力を利用して惑星間の長距離移動を可能にさせる装置だった。
龍脈は実用性を発見される前も生命に未知の作用を及ぼすことが確認され、龍脈の門である「穴」の上にある森は巨大な森になり、「穴」の上にある泉を浴びた者は病が治ったという話だった。
日本の昔話でもそのような奇跡の若返り、あるいは黄泉がえりの泉の話はある。心理学的にそれを解釈するなら、人間の心の最下層にある領域と意識が統合することで新しい生き方や態度が得られる事を意味するのだろう。
虚は龍脈の力によって生まれた存在だった。それが銀さんの前に立ちはだかるということは、銀さん自身が虚という存在と対峙することで、松陽を斬って鬼になった銀さんが人に還る、つまり生も死もない空虚な状態から「人間」として再生しようとする過程を凝縮してドラマの一場面として見せてくれているのかもしれない。銀ノ魂篇での虚との最初の決戦のタイトルは「人間という生物」だった。そこで虚はこう言った。
「人間 私は君達を君達よりよく知っている 愚かで臆病で残忍で醜悪な生物 過ちをくり返し数多くの悲しみを生み続け私に怯えていた生物 私を何度も殺した生物 私が何度も殺した生物 私が…ここで終わらせる いやもう終わった生物だ」
『銀魂』空知英秋 集英社 666訓
何十年も人間たちによって拷問を受け続けていた虚は、そうした人の醜さを見続けたために人間を終わらせようとしてきた。そのうちに人の怯えが見えるようになったと同時に、死にかけた朧に出会ったことで人を呪っていた虚から人を愛する松陽が生まれたという。彼は殺戮を望む無数の人格の虚を止めて己を変えようと望む一人の虚だった。洛陽決戦篇の最後に語られた無数の虚が生まれた経緯はこうだった。
「虚 吉田松陽
『銀魂』空知英秋 集英社 593訓
私はあなた達のしっているそのどれでもあってどれでもありませんよ
名前も忘れてしまう程はるか昔からこの身体の中にいたもの
いや名前など最初からなかったのかもしれない
覚えている限り私を名前で呼ぶ者などいなかった
代わりに浴びせられたのは無数のそしりと敵意
唯一覚えている敵意は──鬼」
「魂がかき消えてしまう程の苦しみを味わい続けてもあの人は死ななかった
無数の死と無数の生をくり返しても消える事ができなかった
ゆえに生んだのだ
無数の死と無限の生
終わる事のない苦しみを超えるために無数の自分を」
「永劫に続く苦しみから逃れるため
私は無数の人格を生み自分を塗り潰したのです
そしていつ誰が何のためにそこに私を閉じ込めたのかしる者さえいなくなり牢獄さえ朽ちた頃
私の中の彼等もまた私という檻を破り動き始めた
無数の死から生まれた彼等が無数の死を人間に与えるために
彼等はかつて人間にされた行いをたどるように殺戮をくり返した」
殺戮を望んだ無数の人格の虚達、また彼らを止めようと望んだ一人の虚松陽、そうした全ての虚を殺して全ての虚を終わらせようとしたのがラスボスとして銀さんたちの前に立ちはだかった虚だった。
矛盾する人間の心そのもの
「松陽という人格を殺したのは虚なのかもしれねェ
『銀魂』空知英秋 集英社 595訓
だが内にある虚をおさえるために必死に戦っていた松陽を
虚がつけ入るスキを生むまでに追い込んじまったのは…俺達弟子達だ」
「虚を目覚めさせる最後の死を松陽に与えたのは俺だ
松陽を終わらせ虚を生んだのは人間だ」
人を憎む虚の内で松陽が抗っていたからこそ朧に出会って意識の主導権を人を愛するその人格が持てた。同様に、人を愛する虚の内でも常にそれに抗っている何者かが存在した。彼は好機を得て意識の新たな支配者になる。
これは人が潜在的に持つ多面性、アンビバレンスな内面の矛盾、葛藤そのもののように思う。心理学者のユングによれば、普通の人も多重人格者のように様々な人格(コンプレックス)を持つとしている。彼によれば自分と思っているこの意識の自分も、無数にあるコンプレックスの内の一つに過ぎないと考えていた。それを脅かし意識の主導権を奪おうとする主な別人格が影、アニマ(アニムス)等だという。尤も健康な人の場合は当然多重人格者のような極端な状態にはならないにしても。
最後の虚と松陽は二人の虚として対比される存在だった。これも同様に人が持つ二面性のように思う。お登勢さんは街を護るために人々が結集して協力する姿を見て、こういうものを見れるなら戦争も悪くない、人間も捨てたもんじゃないと言っていた。人の持つ醜悪さは虚でなくても誰でも知っているし、いっそ滅んだ方がいいのではないかという思いも持ちつつも、それでも捨てたものじゃないと思わせるものも確かに存在している。紅桜篇では、一番この世を憎んでいるのは銀時だと桂が言っている台詞もあった。世界を憎む高杉がそれを壊そうとする反面、銀さんがそこに生きる友を護ろうとするのも、同じ一人の人間の二面性の表れのようにも思う。虚との戦いとは人間に内在するそうした対立する心理の表れではないだろうか。
生も死もない絶望と虚無
虚が無限の生を漂う存在であることも人間のある状態の暗喩のように思う。彼は不死に関心を示す春雨の幹部たちにこのようなことを言っていた。
「終わりのない「生」は生といえるのでしょうか 死んでいない事を生きているというのならその「死」すらなくなった状態は「生」と言えるのでしょうか それは「虚」ですよ 生も死もないただの「虚無」だ」
『銀魂』空知英秋 集英社 554訓
最初の決戦で虚は銀さんに、私に敗れ剣が折れたのになぜまた立つと問う。この台詞の背景は銀さんが松陽を斬った場面になっている。銀さんが過去に虚に敗れたのが松陽を斬り護るべき者を護れず侍として死んだ状態を意味するなら、虚とは人間の空虚、絶望状態、生も死もないただの「虚無」の状態そのものの暗喩でもあるだろう。最後の決戦で虚が銀さんに言う台詞もまさにそれを表している。同時に、そうした状態だからこそ失ったものを取り戻したいという想いもどこかに生じ得る。自他に対する希望を折りにくる諦め、憎しみ、死といったもの、虚無に引きずり込むそれらも虚は担っている。罪の念、自責の念から心が常に晴れやかにならず体まで心のように黒くなり闇天丸という鬼になったという話が陰陽師篇にもあった。
信じることが「虚」を超える
銀さんの背負った業そのものの存在である虚と銀さんとの関係は、ある意味トッシーと土方との関係に似ている。妖刀によって土方に憑依したと考えられていたヘタレオタクのトッシーは、実は妖刀によって元々あった弱い心が肥大化した土方の別人格だった。最初は心の奥底に抑圧すれば消滅するだろうと考えていた土方も、それは誤った考えでかえってそれによっていつでもスキあらば身体を奪い取ろうとしていたことに気づく。そうしてトッシーにやりたいことをさせてやり、彼は成仏した。トッシーの話はギャグ回ではあるものの、自分自身の弱さと向き合う点では共通している。
「あなたの言う通り人間は愚かで臆病で残忍な生物 でも一つ忘れてる 人間は己の弱さと戦える生物」
『銀魂』空知英秋 集英社 666訓 667訓
「私はしっていたはずだ私が憎んだその愚かな人間の真価を しったがゆえに振り払おうとしたのに 憎しみさえかき消す可能性をもったその存在を」
「私の中の私はしっている 人間の力を」
終わるよりも苦しみを選択するのはなぜかと問う虚への銀さんの答えもそこにある。苦しみや悲しみの底にいる者に終われば楽になると言う死の誘惑を虚はたびたび持ち掛ける。
銀さんの業としての面だけでなく、そこから関連して人間の宿命全体の面も持つ虚に対して新八が直接対峙している場面がある。銀ノ魂篇での虚との最初の決戦で新八はこのように感じた。
「人は生まれた時から終わる事が決まっている 誰もその理からは逃れられない あの男はその運そのものなのだと 人類の元に人の形をして現れた死という理なのだと」
『銀魂』空知英秋 集英社 662訓
虚に斬られるのを受け入れそうになる新八は、第一話の最初にも描かれた新八の父の台詞を回想する。
「どんなに時代が変わろうと人には忘れちゃならねェもんがあらぁ
『銀魂』空知英秋 集英社 662訓
新八お妙 たとえ剣を捨てる時代がきても魂におさめたその…まっすぐな剣だけはなくすな──
その父は何があっても剣を捨てるなと言い残し
その目を見開いたまま死んでいった
形なんて目もくれず最後の瞬間まで
あの男も捜し続けていた
僕達は終わるために生まれたんじゃない
たとえ大切な父を失ってしまっても
たとえこの身が滅んでしまっても
終わらないもののため変わらないもののため
ここに生きている」
幼い頃に父の遺言を聞き、一話で銀さんと出会ってその後を追い続けて形になった新八の強い信念がここに表出している。それは初期から描かれてきた銀さんたちの信念、最後を美しく飾り付ける暇があるなら最後まで美しく生きようという信念と重なる。銀魂では終わることよりも何よりも価値があるとしてきたのは、変わらないもののためだった。戦うために生まれ生きてきた戦闘部族の茶吉尼の王蓋は、戦闘部族でもない地球人が彼らを恐れさせるまでに戦う姿を見て問う。彼らは何のために戦うのか、その花の名は何か。
銀魂で変わらないものとして信じようとした価値、それは一貫してこれまでも描かれていた。竜宮篇でお妙さんが信じたようとしたもの、それは過去の攘夷戦争時に桂や高杉が見た戦う銀さんの姿でもある。そういう景色を銀さんたちは見ていた。
彼等が抗ってもがいて生きるのは、ただ生きるためなどではなくそのためだった。ただ生きる事は価値でもなんでもなくただの虚無に過ぎない。美しく生きようとしたのは、その花が美しいと信じたからに他ならない。花の名を知らない者からすれば、彼らの生き方は一見醜く映るものかもしれない。しかしそれが美しいということなどは世界中で自分だけが知っていれば十分なことだ。それが彼等が信じた侍だったからこそ、彼らは護るべき者を護れないと死ぬのだ。そうした意味で美しく生きることこそが虚の言う「虚無」を打破できる。人間はそれによって価値のある現実を生きることが出来る。
十五年もの連載でずっとホームレスを続けてきた長谷川さんもそれと同じ価値を信じていた。自身や様々な人々の絶望を見てきた彼にとって、戦争で異人が街を攻めてきたことなど数ある多くの絶望の内のたった一つにすぎなかった。
「たやすく口を開くのが絶望ならば希望もまた同じだ
『銀魂』空知英秋 集英社 662訓
俺にとってこの絶望は無数にある絶望の一つに過ぎん
小銭一枚拾えばたやすくかき消える安い絶望さ」
どうでもいいことだけど初めて松陽を見た時、その和服と長髪の出で立ちからカーテンのシャーが気になるタオル姿の人が頭をちらついて仕方なかったことがあった
本当にどうでもいいな…
前→銀魂の映画と最終回に感動した話 →銀さんについて
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