映画『もののけ姫』でエミシの里を襲ったタタリ神はアシタカに倒されるときに死の呪いをかけた。この呪いやタタリ神について考えたことを。
文明の本質は生命の持つ呪い
アシタカには里を守るという人間側の十分な理由がありながら神殺しというタブーを犯したために死の呪いをかけられた。そういう非常に不条理な理由で呪いを受けている点でアシタカと現代人は似ていて、その呪いは生命という存在そのものが持っている非常に理不尽な部分だと映画のパンフレットで宮崎駿は述べていた。
生命そのものが持つ理不尽な呪いについては小説家カレンバックとの対談でも述べられている。それは自由という現代では明るい面のみが強調される観念の暗い面のことだった。
「飢餓と病気と老いと死を免れたい、その四つの苦しみから何とかして逃れたいところに人間の煩悩がある。いまの僕らの社会は、その四つに挑んでいるんです。飢餓をなくしたい。老いもなくしたい(中略)人を長生きさせることが善だとしている。最後に死の問題だけは回避しようがないんで、なるべく自然に死なせようやというところで、実は心の問題としては全然解決がついていない。
この四つの問題をどういうふうにつかまえるのか。かつて宗教で癒そうとしたけれども、宗教のかわりにテクノロジーなんかで癒すことができるんじゃないかと思ったところに、実はいま僕らが突き当たっている精神的な大きな問題があると思うんです」
『出発点(1979~1996)』宮崎駿 株式会社徳間書店 1996年7月 338-339ページ
自由への欲求は飢餓、病、老、死という不都合から逃れたいという欲求でもあり、そこから長寿や自然な死が善とされるようになり、また自由への欲求から科学も進歩し、不平等の格差も解消されてきた。しかし物質・合理主義で因果律を重視する科学には人間の心の不安に対して癒す力はない。科学の成功によって心の問題まで技術や知識で解決できると考えてしまう近代からの傾向から、今となっては信仰はわからないものとなった。
宮崎は、今の時代の環境問題などの状況も人間の自由への欲求の結果が引き起こしたものであり、それは人類が「やり方を間違えたのではなく、文明の本質の中に、こういう事態を起こす原因があった」ためと述べていた。そこには人間がただ存在すること自体が自然を破壊しているという問題意識があり、人間の持つ本能とのジレンマを抱えて生きていく態度の必要性がアシタカという現代人を通して描かれていたのかもしれない。
自然が復讐する時代
アシタカに呪いをかけたタタリ神は、元はナゴの守というタタラ場付近に生息した猪神で、エボシ率いる石火矢衆に深手を負わされ、その苦しみと憎しみからタタリ神となった。
それは黒い異形の姿で蜘蛛にも似ていて、動きもそれに似ていた。しかしそれの纏うヘビ状の模様がひとつひとつ生きているかのように蠢き、急に不定形な動きをみせることがあった。元の猪の姿とかけ離れているのは、それだけ元の心からかけ離れている心情にあるためかもしれない。
以前ナショナリズムについて調べている時に司馬遼太郎の『この国のかたち』を読んでいて、司馬が「巨大な青みどろの不定形なモノ」に浅茅ヶ原で出会ったことが述べられていた。その異様な姿は何かタタリ神を彷彿させた。
「その粘着質にぬめったモノだけは、色がある。ただし、ときに褐色になったり、黒い斑点を帯びたり、黒色になったりもする。割れてささくれた爪もそなえている。両眼が金色に光り、口中に牙もある。牙は、折れている。形はたえず変化し、とらえようがない」
『この国のかたち(一)』司馬遼太郎 文藝春秋 1993年9月34、35ページ
その正体は日露戦争の勝利で大衆を熱狂、傲慢にさせて少しずつ狂わせ、昭和の参謀の超法的な統帥権が独立、増大し、太平洋戦争において頂点に達し滅亡した時期のことであり、それまでの歴史とは非連続の鬼胎の時代のことだった。
司馬によれば、日本を滅ぼした統帥権は一面的なドイツ傾斜という国家病にあった。『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』の磯田直史によれば、その萌芽は明治十四年の政変頃に国家モデルをプロイセン・ドイツ型に移したことにあると考え、そこから国会の議決なしで国政を行うようになり、また日露戦争の勝利がもたらした傲慢という疲れから病を発症させたと考えていた。
明治政府を興した江戸時代の人たちには自国を客観視し相対的に比較する視点があり、それはまだ自国が弱く成長の必要があるという謙虚さがあったためにその能力が保有されていた。それが一面性とロシアに勝利して傲慢になったために失われたらしい。
自信を持ち堂々とすること自体は長所でもあるため、誰が威張ってもいい。自惚れたり傲慢になるのが必ずしも悪いのではなく、偶然的に賦与された様々なものまでを自分の力量のように思ってしまうと、とたんに精神主義に陥り他国や他人を蔑視し始めてしまうのだろう。
司馬は、まだ弱者の自覚や謙虚さを失っていなかった明治初期の日本人は合理主義とリアリズムを発揮することが出来たと考えていた。宮崎は司馬のそのような礼儀から環境問題についても考えて、人間以外の生物や自然に対しても礼儀を持つ必要があると考えていた。
もののけ姫の舞台となった室町期は、網野善彦によると自然への畏怖より富への欲が金融の発達と銭の流通で強くなり、それまではあった自然への感覚が失われた時代ということだった。そして公害、自然破壊などの様々な形で自然から復讐を受けつつある現代を、「文明史・民族的転換」の室町期の社会以来の転換期と見ていた。
日露戦争の勝利が鬼胎の萌芽であったように、室町期の自然への勝利が、そして自由と科学の勝利がタタリ神の萌芽となり、今では様々な「復讐」という形をとって人々を襲っているように思う。そしてそれは人間の自由本能とは切り離せず、最初から同時に併存しているものだった。復讐は人間の外部だけでなく内部にも及び、科学では癒せない様々な不安や悩みを人々は抱えるようになったのではないだろうか。それが悪化すれば自ら我を失ってタタリ神にならないとも限らないのが今の時代のようにも思う。
そうした時代にあって自然に対して礼儀を持つという合理主義とリアリズムを発揮してそれらに対処することが作品として描がれたものがもののけ姫だったのかもしれない。
失われた根源、清浄な世界
呪いを解くため、また自らの運命を見定めるためにアシタカはシシ神の棲む森へ向かう。そこは動物たちが太古の姿のままで生きている原始の照葉樹林であり、昼間なのに非常に暗く、コダマの棲むその森は木々や動物たちの生命で満ちているかのようだった。この森は人間に自然に対する畏怖を呼び起こす。そうした森のさらに奥深くに、生死を掌る神獣の棲む神秘的な中州があった。
宮崎は、そこが日本人にとって一番大事な核の部分であり、それを今ではなくしてしまったと述べている。
「山奥に行くと、人間が踏み込んだ事のない深い森には清冽な水が流れてるっていう場所が、日本人の心の中にずっとあった。そこには里では見かけない大蛇や、恐ろしげなものもいるというふうにある時期まで、思っていた。そういう深山幽谷で、人気がなく、神々しい場所、そこにいろいろなものが生まれてくる根源があるっていう気持ちは、僕の中に今でもある」
『もののけ姫』パンフレット 東宝株式会社 1997年7月 12ページ
そういう清浄な世界、根源をこの島に住む人々は失くした。それは「この島に住んで来た人間たちにとっての大事な根っ子」だった。宮崎はまた、枯山水などの深山幽谷を象徴した日本庭園が室町期に造られるようになったのも、周囲の自然からそれらが失われ始めた時期のためと想像していた。当時はまだ庭園を造って自分たちの根源を失わないようにしていたということだった。
このような清浄な世界を彷彿させるのは他のジブリ作品にもあり、ナウシカの腐海の底の清浄な場所や、ラピュタの天空の上の庭園なども類似しているように思う。もののけ姫でいえば他にタタラ場の主であるエボシの秘密の隠された庭がそうかもしれない。
ジブリ作品の庭については、こちらのサイトに興味深いことが書かれていた。
「ジブリ宮崎駿作品は、なぜ「庭」が異世界との接点なのか。ガーデン雑誌編集者が読み解く」
人間たちはシシ神の首を奪い、アシタカとサンはその首を返す。おそらくそこに、人間の失った根底、清浄な場所を取り戻すヒントが描かれている。
自然そのものであるシシ神の首を返すとは、人間が奪ってきた自然を返すことであり、それは現代の趨勢である人間中心主義という一面的な見方に他の視点を追加することになる。外界の自然を尊重して残すということはまた人間の内部の自然も失われずに残ることになり、それによって心の中のタタリ神になり得る温床である原因不明のドス黒い感情は薄らぎ、またそれに対しても自分である程度の対処は可能となる。
アシタカの呪いの痣が完全には消えないにしても、ほとんど薄まっていることがそれを表しているようにも思う。それはおそらくアシタカの中に潜む激しい怒りや悲しみが薄らいだことを示している。アシタカはタタリ神と化すことから解放された。
自然の制約の中で
合理主義とリアリズムはモロの君の態度にも表れている。モロの君もナゴの守のように人間の毒を受けて負傷しながらもタタリ神にならなかった。モロはこのように言う「彼奴は死を恐れたのだ、今の私のように。私の体にも人間の毒つぶてが入っている。名護は逃げ、私は逃げずに自分の死を見つめている」
モロにも死の恐怖はある。しかし生物の制約の中で生きる覚悟があったために、死から逃れようとしなかった。ナゴの守もおそらく苦しみと憎悪に囚われなければ己の死を見定めることは出来た。それが出来なかったのは猪の直情的な性格もある。
乙事主がタタリ神になりかけたのも、苦しみと憎悪が端緒にある。荒ぶる山の神々の中でもモロの君と並ぶ大物でありながらタタリ神になりかけたのは、ナゴの守のように猪の誇りとして正面から真っ直ぐに進む性質があり、そこから死者が蘇ると言う普段なら思わないようなことを思ってしまったことにある。それは生物の限界を超えている。自分の欲が生物の制約を超えるか否かがタタリ神になるかどうかの分かれ道になるのだろう。
生物は自然の制約の中で生きる。自然に対する礼儀を失い、自由の欲求や科学の進歩によってその制約や不都合を不自由と感じるとき、タタリ神は心の中から復讐しにくる。このような難しい問題をこの作品は問いかけていた。
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