小学校の高学年だった頃、毎年夏休みにそうしていたようにその年も北九州にある父の実家に家族で遊びに行っていた。
居間で妹たちと寛いでいると、祖母がある女の子の写真を持ってきた。
祖母によると、その女の子は近所に住んでいた子で、普段から祖母と仲良くしていたところ、病気で亡くなってしまったという話だった。
それを聞いたオレは、妹たちに”健康で生きていることはそれだけで幸せなことなんだよ”と言った。
その時ふと、祖母がどこか寂しそうな、悲しそうな表情をしていることに気づいた。
オレは自分の無神経さと間違った発言をしたことを後悔した。
たとえ当時の自分にとってそれが正直な気持であったとしても、仲の良かった女の子を失った祖母の眼前で言うことではなかったと。
しかし、その後こうも思った。そもそも”健康に生きていることはそれだけで幸せなこと”なのだろうかと。それだと病気で亡くなった女の子はそれだけで不幸なことにならないかと。
子供の時のこうした経験を、折に触れて思い出すことがあった。
中学生か高校生の頃、テレビで長崎に原爆が落ちたときの話をやっていた。
元々は九州の小倉に落とされるはずだった原爆が、悪天候のために長崎に目標が変更されたという話だった。
父の話では、当時祖父母は小倉にいたという。もしも当時の小倉が悪天候でなかったならば家族は今ここに存在しなかった。その時、不思議なことだと思った。たまたまの偶然で存在していることに。たまたまの偶然で存在したりしなかったりしている、そんなことの連続で世界は成立しているのかもしれないと思った。
そういうことを考えているときも、子供の頃に祖母から聞いた女の子の話を、心のどこかで意識していたように思う。
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