NHKブックス100分de名著シリーズ。哲学者の萱野稔人がカントの『永遠平和のために』を題材に、予備知識のない人でもカントの哲学を読者が自らの思考で辿れるように試みたのが本書。日頃政治の話題に触れてこなかったオレでもわかりやすく読めた。
この人の他の著作『死刑 その哲学的考察』を数年前に読んだとき、道徳についてかなり徹底した思考をしていたので感銘を受けたことがあった。その源流の一つにカント哲学があったのかもしれないと本書を読んで思った。
現在でも思想や体制の異なる陣営による戦争が起きている中、カントが目指した永遠平和とはどのようなことか気になった。萱野は、カントは従来誤解されてきたような理想主義者ではなく、永遠平和についても理想ではなく厳格な現実主義者としてその根拠を見出していたと述べる。
全体の要約
本書を要約するとこうなる。
永遠平和の実現の根拠は、そうした現実の中で働いている原理にあるということが要点になる。本書は平易でわかりやすくそれが述べられていた。
戦争が起こりにくくなる仕組み
永遠平和の条件は法的な状態の確立だった。カントは戦争が起こりにくくなる社会の仕組みの3条件として、「国内的な政治体制」「国際法」「世界市民法」の水準を考えていたと第2章で萱野は述べている。これは共和的体制、世界国家ではなく連合の関係、訪問の権利にとどまる歓待の条件としてそれぞれについて述べられている。これらに共通するのは〈法・権利〉の概念に誰もが表向きには敬意を表せざるを得ないというところに誰もが道徳的素質によって制約されていることが示されるというのがこの章の要点になる。ここに悪の原理を克服する土台があるという。
悪の本性
人間には平和を目指そうとする部分があるのと同様に、戦争へ向かおうとする傾向性が本性にあるということが第3章で述べられていた。利己心と自己保存の欲求は誰もが持ち、道徳的に劣悪で自分の利益を最優先にする人にとって最も都合が良いのは全員が法に縛られて自分だけは免れる状態になる。しかし誰もが利己心からそれを要求するため、誰もが法に縛られてそれは起こりにくくなる。それが人間の悪こそが平和の条件になるということであり、これは国内だけでなく国家間でも同じであり、誰もがそのような道徳的な力に制約されているということが本書で貫かれている思想だった。
誰にとっても正しい道徳の形式的原理
道徳の力にはそのように普遍的なものがあり、その原理こそ法が政治を制約する土台ということが第4章で述べられていた。法はみずからの正しさを追求するほど、法の適用を免れる例外を許容できなくため、道徳と同じく形式的な原理を持つ。形式的原理とは道徳や法の内容のように相対的なものではなく普遍的な絶対性を持つため、法的な状態を確立する道徳の形式的原理こそが永遠平和の実現の根拠足り得るということだった。
感想
良いと思った点
・道徳の形式的原理の力に着目した視点
道徳の形式的原理の力に着目し、誰もが道徳的な正しさに強制され縛られているという事実から平和の条件について考えているところに説得力があると思った。
世界国家の成立もその視点からすれば各国家が自国の法的な状態や主権を手放すことになり、また世界国家は支配する民族とされる民族に分割するため専制政治のようになり、平和からは逆に遠ざかるという点などがそうだった。
道徳がなさそうな悪人も、目的のために手段を正当化する国も、みずからを正しいと主張することからは逃れられないため、それを正しいと主張すること自体がまさにその主体を縛るという、そうした道徳の形式的原理を応用すれば具体的にそうした対象と和平を築く上で一つの有効な方法になるかもしれない。
世界国家の実現している世界には漫画ワンピースなどがあり、そこでは世界政府の天竜人と呼ばれる権力者が支配し、市民の命も自由も彼らの都合で奪われていた
政府直属の機関に警察力を行使できる海軍という組織があり、海賊が跋扈する世界にあって利点はあっても、その世界政府や海軍が腐敗していれば市民は対抗できず理不尽に支配される。また、政府の非加盟国の民は政府・海軍にとって人権がないというのも、世界国家の実情がよく描かれているのかもしれない
疑問に思った点
・共和的体制の支配の体制について
平和の実現のために「支配の形式」よりも「統治の形式」の方が重要であり、それは君主制か、貴族性か、民主性かということより立法権と行政権が分離されていることが重要ということだった。それは、それが分離され、かつ自己決定権の自由と誰もが法に従属する平等の体制であるなら、支配体制は何でもよく、よりベストな体制を追求しなくても特に問題はないということだろうか。
カントのいう民主性が直接民主制であり、現代日本の間接民主制がカントのいう貴族性に近く、直接民主制が立法権と行政権が分離されてないためにカントは否定したのなら、今の日本などのようにそれが分離し自由と平等の体制があるならカント的には悪くはない体制、ということになるのだろうか。
しかしより良い体制を追求しなくてもいいとは述べられていない。ただカントはフランス革命の時代の時点でここまで考えていたということであり、それ以上の体制を考えるなら、それは現代人の課題になるのだろうか。
・移民の受け入れと歓待の概念について
萱野はデリダが移民の受け入れの肯定のためにカントの歓待の概念を肯定的に援用したことに対し、それはカントの意に反すると批判した。カントの歓待は訪問者が「敵として扱われない権利」であり、外国人が要求できるのは訪問の権利であって客人の権利ではない。移民の受け入れは客人の権利にあたると萱野は考えた。これはわかる。
しかし萱野は「すべての人が地表を共同で所有する権利」を誰もが持つなら、歓待の概念を移民を無条件に歓待すべきと解釈してもいいのではないかという反対意見を想定し、それに対してそれは植民地支配を肯定すると述べている。カントは当時西洋人による植民地支配を歓待に欠ける態度と批判していたため、デリダの歓待の解釈はカントが批判した植民地支配を肯定することになると萱野は批判した。
デリダは無条件に他者を受け入れるとしたため、こうした批判は妥当のようにも見える。萱野も「場合によっては植民地支配のような暴力的な征服を正当化してしまう」と述べていて、移民の全てがそれに当てはまるとは一言も述べていない。しかしこれがもし移民の受け入れをただ否定しているだけになるなら、こうした批判は移民に対しては必ずしも適切ではないだろう。尤もここでは歓待の概念の解釈におけるデリダ批判のため、実際の移民問題についての是非を論じているわけではない。しかしデリダの不当な解釈を批判するために、かえって移民について不当な解釈をしてしまうということもあるのではないかと疑問に思った。
これ自体は本書の本質である道徳の形式的原理の働きというより、どちらかというとナショナリズムとリベラリズムの問題に近いのかもしれない。著者はリベラリストたちがナショナリストたちの問題を道徳やモラルの問題としか見ず社会構造の問題と見ないために、いわば反リベラリズム、あるいは反ー反ナショナリズムとでもいった立場を取っていた。それがこうした批判につながったのもあるのだろうか。
おわりに
疑問に思った点については全体としては小さなもので、それ以上に良いと思ったことの方が多かった。あとがきで著者は、この書はカントの道徳哲学のエッセンスをわかりやすく、しかし正確に提示しようとし、目指したのは「カント哲学を私たち自身がみずからの思考のもとで「理解」し、さらにはカント哲学をつうじて私たち自身が哲学すること」と述べていた。
現在起こっている戦争を今すぐに止めることが出来るような万能な力はない。しかしそうした現実を見据えて諦めずに平和を見出そうとする上で、確固とした一つの原理をこの書は提示しているように思えた。
道徳の形式的原理について深く知るにはこの著者の『死刑 その哲学的考察』がいいかもしれない。それは第3章で応報論として詳しく述べられていた。道徳の内容、何を価値とするかは人によって違いがあり相対的ではあっても、それを成立させる形式としての、根源的な応報的観念は普遍的とした。そのため死刑の是非は道徳的には確定できないというところまで考えた上で、そこから処罰の選択は政治哲学的な問題とし、何が極刑として相応しいかを考えて結論を出している。そこにはカントが平和の条件として手段が目的を正当化するという消極的な理念を見出したように、加害者の思想や公権力の暴力性、大衆の処罰感情といった事実から目を逸らさず、人間の本性に沿った現実的でより普遍的で良い選択を見出そうとしていることが伺える。
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