いじめをするとバチは当たるのか?

本や日常など

人生には絵の他にも大事なものがあり、その残りの部分をないがしろにすると、その時には自然の報いを受け、さらに運命がわれわれに刃向かってくる

『ファン・ゴッホの手紙 Ⅱ』ファン・ゴッホ美術館編 圀府寺司訳 株式会社新潮社 2020年10月 481ページ

いじめをしたらバチは当たるのだろうか?ということについて

バチなんてあるわけないじゃん~

結論 当たると思う

うそーん

あくまである程度の範囲内ではそう思ってます


いじめを題材とした絵本に『わたしのいもうと』というものがあり、それは学校でいじめられた女の子が不登校になり、家から出なくなる話だった。いじめてた子たちは成長して進学していくのに対し、引きこもった女の子は当時のことに囚われたまま月日が流れ、最後にはひっそりと亡くなってしまった。残された言葉は、いじめた人たちはそんなことはもう忘れてしまっただろうというものだった。


ただいじめられた子だけが犠牲になり、いじめてた子たちはその後も普通に就職をしてやがて家庭を持つだろうことが想像できる。いじめをしてもバチなどはないように思える。しかし、それは本当だろうか。


仏教ではブッダの教えを記した経典から、因果応報はこの世のルールだとされている。YouTubeで活動している大愚和尚も、悪口を発した人はその人に悪は返るということを言っている。しかしそれは信仰の話で、実際にはその根拠はどこにもない。


因果応報がこの世のルールであるかないかはともかく、人間の道徳律には因果応報がなければ納得できないという根源的な原理があるということを、哲学者の萱野稔人は「応報論」として述べている。二つの物事の価値が釣り合う時に正しいと感じ、釣り合わない時はおかしいと考えるのが人情だという。いじめをした人には、それに相応する悪が返らなければ釣り合わないため、返らないとおかしいと考えるということになる。


人間の外界に因果応報の絶対的根拠もなく、内部にあるのも道徳的な原理でしかないならば、いじめても罰があたるかどうかはやはり不明だ。そういう考えとは別の視点を提示したのが分析心理学のユングの話だった。


ある婦人が何をやっても上手くいかないためにユングの所へ相談にきた。その内容は二十年前に殺人をしたというものだった。婦人は過去に友人の男が欲しいために友人を毒殺し、その男と結婚した。その際に道徳的な考慮は不要と考えていたという。男はすぐに若くして亡くなるも、その後に奇妙な事柄が多数婦人に起こった。生まれた娘は成人後すぐに結婚し婦人から距離を取りたがり、今では全く交渉が途絶えてしまった。馬乗りだった婦人はある日、馬の苛立ちから放り出されて馬乗りを諦め、その後犬を可愛がるようになったものの、偶然その犬が麻痺にかかってしまった。それでとうとう婦人は道徳的に肩代わりされていると感じ、ユングの所へ告白しにやってきたという話だった。


罪を犯した者は自分の魂を破壊するため、殺人犯である婦人は自分自身を台無しにしてきたとユングは述べる。たとえ罪悪感などの道徳的意識を持たず、殺人が誰にもバレなくても、それは自ずから現れてくるため、時に動物や植物さえもそれを「知っている」かのように見えてくることもあるとユングは述べている。医者として日々患者の精神疾患を見ていたユングは、無意識が意識を補完することを経験として知っていたためにそのように見ることが出来た。


これに似ているとオレが思った話が、日本各地に伝わる民話・怪談の一つの「六部殺し」だった。有名なのは夏目漱石の『夢十夜』の第三夜かもしれない。典型的な「六部殺し」は、ある農家が旅人の六部を殺し、金品を奪い、それを元手に財を成すも、生まれた子どもが六部の生まれ変わりでかつての犯行を断罪するというものだった。


こういう話が古来から様々なバリエーションとしてあるのも、悪を成せば自ずから返ってくるということを昔の人は経験として知っていたのではないかと想像する。仏教の因果応報の考えも元々はそうした経験から来ているのだろうか。


ユングは人間の普遍的な機能のことについて述べたので、自ずから現れる現象に西洋と日本の違いはあっても、心の機能自体は根本的には変わらない。それなら現代であっても、殺人にさえ発展し得る昨今のいじめ、またそこまでじゃなくても日常的に目にするいじめであっても、いじめている当人に悪の自覚があるなし関係なく、程度の差はあれ自ずから罰を受けることもあるのではないかと思った。

まとめ

そのため、いじめをしたら罰は当たるとオレは思う。


ただ、いじめだけが悪いとするのは安直だともオレは思う。というのは、いじめをしたことのない人はいないだろうと思うためだ。悪意のないからかいで傷つけることは誰でもあるし、いじめでなければ次からは間違いを修正して節度を持った距離感を把握していくことができる。いじめをした自覚なんてないと言う人も、一度も悪いことをしたことないと言う人はまずいないと思う。人間は善だけでなく悪によっても成り立っているため、自身の行為の悪や罪について可能な範囲で自覚をすること、つまり自らに返る悪に人が負うべき範囲内の責任を持てるかどうかが大事になるのではないか。


星野道夫など狩猟民と関わってきた人の本を読んで思うのは、狩猟民が当たり前に持っていた動物を殺して食べなければ生きていけない悲しさを分業の時代のためかオレらは感じにくくなっているのではないか、という事だった。肉を見て美味そうと思ったり、食べて美味いと思う事実と同様に、食べた動物もオレらのように赤ん坊の頃があり、幼年期があり、成長していった一つの命という事実も忘れてはならないのだろう。それを見失うことでオレらは自覚してないために罰を受けていることもあるかもしれない。それはもしかしたら、何かはっきりとは捉えられない現代特有の生きづらさの要因の一つとなって現れているのかもしれない。

追記

ここで述べたのはあくまで人が負うべき、意識化するべき道徳的責任という範囲内の話だった。その範囲において背負うのは言わば公正であり、それに関して無知であるのは不正のためバチが当たることもあるかもしれないと考えた。バチを与えるのは神などという何か形而上的な存在ではなく、心理学にならって認識や経験として把握できる範囲のことを述べたので、それ以上のことは言っていない。そのため、震災や病気に見舞われるのは罪があるためなどのような懲罰的に考えるバチのことを言ったわけではなかった。個々人が自分の運命に全責任を負うべきとするのは能力主義のおごりにあるとサンデルは言う。そういうバチに関してはあるともないとも言えない、というよりオレは信じていない。そういうバチはむしろ人の持つ能力主義的道徳律の自然な傾向に惰性であることの露呈に過ぎないと思っている。

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