以前某動画サイトのコメント欄でつまらないやり取りをした。
ある駅の通路に掲載された広告を撮影しようとした一部の女性たちが警備員と揉めていた。どうも撮影禁止の場所だったらしい。その広告に掲載された著名人に対するファン心理としては、やはりその女性たちは撮影したいのだろう。しかし禁止の場所で何度も撮影しようとする女性たちと対応する警備員を見て、オレはついこうコメントした。
「この女性たちは見た目はキレイでも心はブスになっている。見た目が良い方がダメになりやすく、両方キレイになるのは難しいんだろうなあ」
誰かから返信があった。
「そもそも心がキレイな人は人間として不可能に近い。どれだけ善意に見えても大抵は自己満の感情が入る。そもそも善意を振りまくのはただの押し付け、偽善」
返信した。それは極端だ、と。
こういう感じだ。つまらないやり取りと言ったのは、オレがつまらない意見を言ってつまらない返しをしたからであり、相手の意見がつまらなかったわけではない。その後、あまり気にも留めてなかったものの、あるアニメを観ていたらそこでも似たような偽善の話題が出たため、やっぱり一度考えようと思いなおした。
この人の主張を検討してみる。一見間違ったことを言っているようには見えない。
「そもそも心がキレイな人は人間として不可能に近い。どれだけ善意に見えても大抵は自己満の感情が入る。そもそも善意を振りまくのはただの押し付け、偽善」
この人の前提には「自己満の感情が入る善意を振る舞うと他者への押し付け、偽善になる」というのがある。また、自己満の感情が少しでも入れば心がキレイではないとしている。これは適切だろうか。
人は誰でも善意の行動に自己満の感情が入るのは事実だろう。しかしその事実が人の心をキレイにしないことには必ずしもならない。これは一つの事実だけを全てだと思い、他の事実、良心があるという事実を見逃しているからそのように言っている。
そのため、おそらくこの人は人が善行をする理由とは「周りから良く思われたい、あるいは嫌われたくない」からそうしている、と思っているのではないだろうか。それは、そういう外的要因だけが唯一己を縛るものとして考えているためだ。実際善行をする理由としてそれがないとは言えない。むしろそれが基本的には己を強制する大きな要因となっている場合はあるだろう。
だが、もしそれだけが本当に己を律するものであるなら、世の中のほとんどの人は誰も善など自ら進んで志さないとその人は言っていることになる。ほとんどの人は偽善者になる。善を自ら進んで望まない人は、周りの人を自分のいるところまで下げようと望むだろう。これは行動経済学ではスパイト行動と言うらしく、実験結果により日本人に多いことが分かっている。日本人はその性質上、自分の幸福を望みそれを実現しようと欲すよりも他人を自分よりも幸福にさせないことに熱中しやすいことになる。そうした出る杭を打つような国民性が世間の空気を形成し、日本における犯罪率が他国よりも低いなどの良い結果の一因ともなっているらしい。それは結構な事だとしても、そうした性質によって生涯を他人の足を引っ張り合うことに熱中し、自分の善や幸福を伸ばさないで暮らすと言うのは、個人の単位で見れば酷く空しく思う。
見た目が良い方がダメになりやすいなんてオレが放言したのは、偶然的に与えられた外見の良さで周りから良い扱いを受けると、かえって内的要因を軽視することになりかねないという思いがあったからだった。特に若いうちに周りからその見た目の良さで甘やかされてチヤホヤされる事に慣れれば、内的要因をいつまでも発見できず従ってそれを志すことも出来ず、いくら年齢を重ねても外見などの外的要因だけを価値の基準とすることになりかねないことになる。これでは最初の幸運がかえって後の不幸の原因のようになってしまう。オレには駅の広告を無理に撮影しようとするそうした一部の女性たちがそのように見えた。また、そうした外見の良さがありながらそうしたことに支配されず内的な道徳心を失わないでいる人は稀有だろうなあとも。
しかし、自己満の善意を振る舞うことは偽善と口では言うこの人も、ほとんどの人は善を自ら進んで望まないとか、ほとんどの人は偽善者とまでは本当には実感としては思っていないのではないだろうか。もしそうなら、そういう内的な感覚はやはり誰にでも備わっていることになる。ミルの『功利主義』によれば、心は習慣によって育まれるので、小さいことから続ける事で道徳的、人間的関心を持つことが可能になり、またそういう人は誰にでも羨まれる幸福な人生を送ることができるということが書いてあった。
やはり、誰でも幸福になるべきであり、その手段の一つとして道徳的関心を持ち、善を望むようになった方が良いのではないか。
でも、それって善意の押しつけじゃね?
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