【失われた知恵と力】星野道夫の「トーテムポールを訪ねて」

本や日常など


10代の頃、『もののけ姫』を観て自然について関心を持っていた時期に星野道夫の著作を知った。写真家、文筆家として厳しい自然と動物の取り巻くアラスカを生きていった星野は、その豊かな想像力と感受性を持って、まるで時代の流れに逆行するかのようにアラスカの様々な伝説を追い求めた。


その一つに、神話時代のトーテムポールを訪ねる「トーテムポールを訪ねて」というわずか6ページの短いエッセイがある。現在のトーテムポールはそれを作るカナダ、アラスカの先住民ハイダ族、クリンギット族の生活が変わってしまい、人々の心の中で物語が消えてしまったために、何も語りかけてこない。しかしある時、星野は現在ではほぼ失われた神話時代のトーテムポールが偶然クイーンシャーロット諸島(ハイダ・グワイ)に残っていることを知る。それは歳月に風化し、苔むし、植物が生えながら、当時の「人々の夢、喜び、悲しみ、怒りを、時の流れの中に押し包んだまま」立ち続けていた。


先住民たちの遠い祖先と伝説の記憶が、様々な動物の紋様に刻まれたトーテムポールは「どこまでが人間の話なのか、動物の話なのかわからない様々な夢のような民話」であり、それは「彼らが自然との関わりの中で本能的に作りあげた生き続けてゆく知恵だったのかもしれない」と星野は述べる。そして「それは同時に私たちが失った力である」


この「私たちが失った力」「自然との関わりの中で本能的に作りあげた生き続けてゆく知恵」について、今再び考えてみたい。

内なる自然


クイーンシャーロット諸島で星野は、多くのポールが傾き、倒れている中、一本のポールが大木を生やし、根が地面に伸びている光景を見る。かつてのハイダ族はトーテムポールの上部に人を埋葬していた。偶然落ちた種子が人間の身体を栄養にして成長していったと星野は考えた。また、かつてのハイダ族の住居跡が苔むし、そこに生えている草を食べるオジロジカに星野は遭遇する。


「人間が消え去り、自然が少しずつ、そして確実にその場所を取り戻してゆく。悲しいというのではない。ただ、「ああ、そうなのか」という、ひれ伏すような感慨があった」


人間も自然のサイクルの一部という自然観をかつてのハイダ族は持っていた。それは決して自然は人間によって征服できるものではなく、また征服出来ると考えることや、実際に自然を奪うことが人間が生き続けていく知恵という力の喪失に繋がるのだろう。こういう考えは宮崎駿にもあり、『もののけ姫』では人間がシシ神の森を十五世紀頃に奪ったために、人間の核となる部分も同時に失われていったことが映画で描かれていた。


別のエッセイで、星野は北極圏野生生物保護区(ANWR)について触れている。観光客も行けないような地の果ては油田開発のために開放すべきという政治家の主張を正しいと認めた上でこう思っている。


「私たちが日々関わる身近な自然の大切さとともに、なかなか見ることの出来ない、きっと一生行くことが出来ない遠い自然の大切さを思うのだ。そこにまだ残っているというだけで心を豊かにさせる、私たちの想像力と関係がある意識の中の内なる自然である」


ANWRは最近ではオバマ政権が指定保護区にした後、トランプ政権は規制撤廃の推進をして、今のバイデン政権はまたオバマ政権時のように「アラスカ国家石油保留地」管理政策を再導入したという。(アラスカ北極圏の石油開発、トランプ政権時代の政策を転換 ロイター通信

先祖と伝説


昔の先住民や星野、宮崎が共通して持っている「私たちの想像力と関係がある意識の中の内なる自然」の有無によって心が豊かにも貧しくもなる。今の先住民はそうした自然を捨てて生活の利便性を選択した。心の中で自然を尊重することに価値を置かなくなったために人々の心の中で物語が失なわれ、遠い祖先と伝説の記憶とのつながりが断たれた。


神話時代のトーテムポールに刻まれた様々な動物たちの紋様は、心理学者のユングの言う無意識の力の諸力、元型なのかもしれない。根源的イメージであり集合的な元型は、あらゆる民族や時代に共通している。昔の先住民たちの「どこまでが人間の話なのか、動物の話なのかわからない様々な夢のような民話」はそのまま太古的性格を持っている。


「トーテムポールの文化をもった海洋インディアンは、先祖の始まりはさまざまな動物の化身と信じ、その家系の動物によって複雑な階級社会が出来上がっていた」


意識とは無関係に自律して存在する心の内なる力の衝動を昔の人はよく自覚し、それを動物とし、自分たちの先祖の始まりと捉えた。おそらくそれ以上に自分たちのルーツを表すことは出来ないことであり、その意味では現代人よりも昔の人の方が人間の心に関してははるかに深く知悉していたのだろう。そのため未開人は自分の否定的な衝動をつねにほどよく解放しながら生きているとユングは述べている。だが文明人の衝動は普段意識によって常にせき止められているため、一度それが決壊するとそれまでの反動で破滅的な力として噴出するとも述べていた。


集合的、無意識的な状態から個人的、意識的に発展していくことは必要な事だった。しかし今度は個人、意識のみを重視し、集合、無意識を顧みることをしなくなってしまった。バランスを欠いた心は当然の復讐を受けることになる。


祖先と伝説の記憶とのつながりはそういうものであり、それを求める想いは誰にでもあるのかもしれない。星野は記録や伝承、友人から聞いたことなどから、クリンギット・インディアンのオオカミ族の最も古くて重要な家系であるタクウェイデの祖先はベーリンジアを渡って日本列島から来たとほとんど確信に近い想像をしていた。


宮崎駿も植物学者の中尾佐助の著作によって照葉樹林文化を知り、自分が日本という国ができる前の縄文時代からアニミズムを持って一番安定して穏やかに生きていた人たちの末裔だったことを発見することが出来て、戦後の閉塞感や民族主義から解放されたと述べていたことがあった。


『もののけ姫』で描かれた日本列島の荒ぶる神々には、犬神、猪神、猿神などの様々な動物神たちがいた。アシタカが犬神、その娘サンと出会うというのは、自らの源流である遠い先祖と出会うということでもあったのかもしれない。もしも星野がクリンギット族の友人と出会ったのも同じ意味なら、そのオオカミの化身とは犬神のことで、同じ共通する先祖という元型だったのだろうか。

新たな神話


日々一万年前から続くアラスカの自然や動物たちの営みを見てきた星野にとって、一万年前のベーリンジアというのは遠い過去の話ではなく、つい最近の話だった。トーテムポールを見た後、星野は夕暮れの海を眺めているときに確信に近い想像をする。それは七千年前の神話の時代の生活の営みの風景であり、漁から帰る人々、赤子の育児する女性、若い男女の恋愛といった風景が現れては消えていった。


「この島に人が住んでいた形跡は七千年前までさかのぼるという。そして神話の時代を生きた最後のトーテムポールは、あと五十年もたてば森の中に跡形もなく消えてゆくだろう」


「人間の歴史は、ブレーキのないまま、ゴールの見えない霧の中を走り続けている。だが、もし人間がこれからも存在し続けてゆこうとするのなら、もう一度、そして命がけで、ぼくたちの神話をつくらなければならない時が来るのかもしれない」


「いつのまにか森の中から別のオジロジカが現れ、トーテムポールの間をさまよっている。神話は突然息を吹きかえし、この世界の創造主、ワタリガラスの苔むした顔がじっとぼくを見下ろしていた」


「自然との関わりの中で本能的に作りあげた生き続けてゆく知恵」という「私たちが失った力」を取り戻すには、昔の人が持っていた目に見えないものに価値をおく豊かさにも目を向けることが必要かもしれない。天地にあるすべてを欲する本能に対抗しない道は、少なくとも存続することを放棄する道だ。未来のことはわからない。しかし個人や身近な関係としてはどのような状況でも幸福に生きることは出来る。一万年前がつい最近だった星野にとって「神話が突然息を吹きかえし」その世界に満たされるのは当然のことだった。


星野はその後ワタリガラスの神話を求めてシベリアにも渡った。クリンギット族に伝わるワタリガラスの神話を友人のボブから聞いた星野はこう思っている「植物たちの声、森の声を私たちは聞くことができるだろうか。あらゆる自然にたましいを吹き込み、もう一度私たちの物語を取り戻すことができるだろうか」


グローバル化に伴うナショナリズムなどの対立にも、こうした深化した別の物語が必要ではないだろうか。民族や国家間の対立を超え、統合するには、政治的経済的に課題を解決していくことと並行して、人間存在の核となる部分をもう一度捉えなおすことが必要に思う。

参考文献 『旅をする木』星野道夫 文藝春秋 1999年3月
使用写真 「shutterstock」

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