【銀魂】銀さんについて思うこと

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こち亀の秋本治が、ストーリー漫画なのにギャグ漫画のように面白い、文字が多くてびっくりというような事を銀魂連載の初期の方、こち亀30周年記念あたりで言っていたことを覚えている。実写化でもギャグシーンは面白くて、銀魂はギャグ漫画というくくりでも良さそうに思う。オレも普段はギャグばかり見て楽しんでる。
しかし銀魂は物語としてのストーリー展開や主要人物の生き様や信念などにも定評はあるので、主にそのことについて思ったことを前回の映画の感想からの流れで話したくなった。


「俺の武士道だ」


一話で新八が銀さんについていくことに決めた理由は、他の侍たちが天人に媚びて従順になり、周りの作ったルールや価値観だけに従うようになったことに対して、銀さんだけはそうした外部のルールではなく内部のルールを優先していたことにあった。そこに新八の目指す侍の姿があると信じて物語が始まった(しかし二話冒頭で家賃を払えない銀さんに呆れて万事屋を辞めようとしている)


特に初期の方は桂、近藤、土方とのやりとりに表れているように内部の規律をより重視する銀さんが彼等との対比として描かれている。しかし中期頃の、土方と銀さんが入れ替わる話では外部のルールの利点も土方を通して描かれていた。その意味で二人は正反対のライバルであるのだろう。しかし基本的にはやはり内部の規律の重視が一貫して描かれている。


侍の姿については芙蓉篇で新八が確信してそれを語っていることから、割と序盤の方で新八は自分の侍を定める事が出来たのだろう。自分を見捨てれば新八が助かる確率が跳ね上がると計算するカラクリのタマに対して新八はこう言う。

「たまさんそれは普通の人間の勘定の仕方です侍は違う」
「護るべきものも護れずに生き残っても侍は死んだと同じなんです」

『銀魂』空知英秋 集英社 142訓


一度護ると決めたものは何が何でも護り通すと啖呵を切る新八の信念はそのまま銀さんや多くの主要キャラの信念でもある(メガネが本体といじられる彼も常人の三倍強い)



侍については銀さんや高杉、桂の師である松陽がこのようなことを過去篇で高杉に述べている。

「君は侍になるには何か資格でもいると
護るお家がなければ尽くす主君がいなければ侍にはなれないと思っているんですか
私はそうは思いません
武士道とは何も国や主君に忠誠を尽くす道だけをさすのではない
弱き己を律し強き己に近づこうする意志
自分なりの美意識に沿い精進するその志をさすのです
だから勉学に励み少しでも真っ当な人間になろうとする彼等も
少しでも強くなりたいとこんな所に道場破りにきた君も
私にとっては立派な侍なのです
たとえ氏や素性もしれなくとも
たとえ護る主君も戦う剣ももたなくても
それぞれの武士道を胸に掲げそれぞれの侍になることはできる」

『銀魂』空知英秋 集英社 517訓

真選組局長の近藤も過去に侍について隊士たちにこう言っている。

「侍のあり方は一つじゃねェ
迷い悩み自分の理想ありかを追い求めるその姿勢こそが侍なんだ
だから捜し続けろ抗い続けろ
あらゆるものが氾濫するこの時代から…
自分だけの真の道を選び突き進め」

『銀魂』空知英秋 集英社 538訓

侍とは各々の理想に各々の美意識や方法で近づこうとすることを言うらしい。それについては銀さんもアイドル篇でお通ちゃんを見ながらそのことが伺えることを言っている。

「己が掲げた理想ににじり寄ろうとする…夢そのもの
それがアイドルだ 奴等は侍と変わらねェ 立派な求道者だよ」

『銀魂』空知英秋 集英社 449訓

こうしたことは侍という言葉は使わなくても茂々、喜々、ドナルド・ヅランプ(桂)といったリーダーたちも言っている。そしておそらくここのヅラの台詞に銀魂で理想とされる人々のあり方が集約されている。

「我々はこれまで将軍という主を担ぎ上げその執政に頼り生きてきた
都合の悪い事は全て幕府のせいにして自らの生き方国のあり方に責任を負ってこなかった
ゆえに我等は王を失った
彼等が最後までその身に背負い護ったものを我等は無駄にするわけにはいかぬ
彼等は言ったこの国にもう将軍はいらぬと
各々が自らの生き方を決めその責を負い力を合わせ国を支えていかなければたちゆかぬ時代が来たのだと
そうこの国を生きる民一人一人がこの壇上に上がった小さき将軍なのだ」

『銀魂』空知英秋 集英社 672訓


銀さんの言う「俺の武士道」つまり内部の規律は、自ら決めた生き方、各々の理想に各々の美意識や方法で近づく生き方に責を負うことだった。そうしたあり方は国のあり方や国を支えることと無関係ではなく、むしろその道こそが国や全体のことだけを考えることよりも全体の益になると思う。民一人一人が壇上に上がってこその国だからだ。銀さんの信念である「最後まで美しく生きる」の意味も、銀さん自身が地雷亜篇で言った「小汚くても自分らしく生きていく事」という「俺の武士道」になる。また、近藤の台詞にある理想には「ありか」というルビが振ってあった。理想は抽象的なものではなく具体的なものでもあり、銀魂の登場人物はその「ありか」のために、それを護るために戦った。彼らの姿勢は一見美しくはなく「小汚く」見えるかもしれない。だが彼らはその「ありか」やそれを護るために戦うことを美しいと信じた。

「幕府が滅ぼうが国が滅ぼうが関係ないもんね!!
俺は自分の肉体が滅ぶまで背筋のばして生きていくだけよっ!!」

『銀魂』空知英秋 集英社 2訓


ハタ王子の獰猛なペットを傷つけると国際問題になるため、新八を犠牲にしてペットを処分する口実を得ようとする長谷川に対して銀さんはこう叫んでペットを倒す。
内部の規律を優先した銀さんを見て長谷川も自分の信念に従ってハタ王子に手を上げる。そのために彼は入国管理局局長をクビになり、連載が終わるまでの15年間基本的にホームレスとして過ごすことになるが。しかし彼がホームレスの立場であるために解決の鍵になった話も少なくなく、最終章では彼が長年ホームレスであったこと自体が布石のようになっている。

「国が滅ぼうが侍が滅ぼうがどうでもいいんだよ俺ァ昔っから 
今も昔も俺の護るもんは何一つ変わっちゃいねェェ!!」

『銀魂』空知英秋 集英社 167訓


一見銀さんの台詞からは国や全体など外部のことを疎かにしているように聞こえる。しかし自分の身近な大切な人や眼前で助けが必要な人を助けることを優先するのは、必ずしも全体を蔑ろにする事にはならない。むしろあまりに広大な範囲の利益を想定するのは、およそ徳のある統治者じゃないと茫漠とした想像になる。銀魂の世界で一番その立場に近かったのは唯一茂々公くらいで、他の人たちはそうじゃない。市井の人の態度として銀さんは何も間違ってはいない。ケースバイケースだとしても、むしろそうしたことを優先せず外部の強制や全体の事を優先する方が、およそ内部の規律を国民が持てないために国全体の損につながる。国を滅ぼすのが侍の魂をなくした人たちなら、国を支えて行く事が出来るのは政府のせいばかりにせず自分の生き方に責任を負い、自らの理想に邁進することの出来る人たちだろう。ヅランプが言っているのはそういう事だと思う。


この理想は、一口に言って道徳的な善と言ってもよさそうだ。それは長谷川さんが「背筋のばして生きていくだけ」という言葉を聞いてまるで学級目標じゃねーかと呟いていたことにも表れている。ギャグ篇の銀さんたちの凶悪さだけ見ると誤解されかねないけれど根は真面目、というより最低限の踏み外してはいけない彼らなりのラインがある。それが学級目標のような善で、それは幽霊旅館篇(スタンド温泉篇)でのこの台詞からも伺える。

「この世に未練を残しさまようスダンド達 奴等は充足感や幸福感を得て初めてあの世にいける そうスタンドを倒すには腕力も知力もいらない 必要なのは思いやり気づかい優しさ そんな学級目標のようなものが強力な武器になるのだ」

『銀魂』空知英秋 集英社 199訓


もちろん銀さんたちは良いことをしたい、善人になりたいという動機で毎回そういう行動をしているわけではない。彼らはむしろ己の規律に動かされている。

「しらねーよ しったこっちゃねーんだよお前のことなんざ」
「誰があんな連中助けにいきてーかよ 止まらねェんだよ 身体がいうことをきかねェ 勝手に前に引き寄せられる」

『銀魂』空知英秋 集英社 130訓 166訓



土方と銀さんはこう言っているものの、彼らはどちらも仲間を思うゆえにそのように言って実際は助けようとしている(ツンデレか?)ここには彼らの助けられる側を弱者にしないという配慮があるようにも思う。これはさらば真選組篇で近藤が佐々木を助けた際に助けてほしいと言った事や、銀さんが真選組に手を貸した事について土方が大きな借りが出来たと言った時にむしろこっちが忘れものを取り返させてもらったと銀さんが言ったこと等からも伺える。同時にまた、柳生篇で近藤たちが言っているようにあくまで自分のエゴとして好きにやっているとすることで、自分が不満や偽善に陥ることから防ぐ面もあったのではないかと思う。みつをの詩に「のに」といえばグチになるというものがあるように、他者のために何かをすると、どうしても良い報いを期待してしまう人間の性がある。人に親切にすればお礼を言われるのを期待してしまう。それがされないと親切にした「のに」というグチがでる。そのため最初から他人のためでなく自分のエゴ、自分事としてやることで、不平不満を言う醜態や親切を押しつけがましい偽善にしてしまうことを防ぐことが出来る。


己の規律に従わなければ彼らの「魂が折れちまう」
吉原炎上篇後に修行して強くなりたいと息巻く新八や神楽に対し、長谷川さんは小さなことを日常の中に溶け込まして継続していくことの方が大事と述べていた(銀さんはそれを口実に努力しないことを正当化していたが。十五年間の連載において彼が習得した必殺技は一つもなかった。ゲームでの彼の必殺技はかめはめ波である。)彼らの「俺の武士道」己の規律は日々の習慣化されたものであるために、彼らはそれに動かされるというようなことになった。それは受動的なことではなく、能動的に侍のあり方を日々求め続けて血肉化したことの証拠といえる。理想的な侍の姿を求めている彼らはしかしそれがなぜ善なのかは知らない。理由はわからずしかしそれを求めそれに動かされる。



吉原炎上編で晴太と日輪を助けに行くとき、銀さんは彼らを助けに行くとは言わずにこう言っている。

「ちょっくら太陽とり戻しにいってくる
こんな暗がりに閉じ込められるうちにみーんな忘れちまった太陽を…
どんな場所だろうとよ
どんな境遇だろうとよ太陽はあるんだぜ
日輪でもねェ辻ちゃんの旦那でもねェ
てめーの太陽がよ
雲に隠れて見えなくなっちまうこともよくあるがよ
それでも空を見上げてりゃ必ず雲のすき間からツラを出す時がやってくる
だからよォ俺達ゃそいつを見失わねーように空を仰ぎ見ることをやめちゃいけねーんだ
背筋しゃんとのばしてお天道様まっすぐ見て生きてかにゃならねーんだ」

『銀魂』空知英秋 集英社 214訓


(辻ちゃんの旦那という時事ネタでもうそんな前の連載時期なのかぁとなる)夜王鳳仙によって地中に閉ざされ太陽の見えない場所になっていた吉原は、希望のない絶望的な状況を生きる吉原の人たちの内面も表していた。月詠の過去の回想で日輪はこう言っている。

「檻が狭いだなんだ不貞腐れる奴はそりゃ不自由だろうさ鉄格子見つめるだけの生活してんだから 本当の不自由ってのはね自分で心に檻を張っちまうことさ 死ぬだなんだわめいて逃げ回ってる暇があったら檻ん中で戦いな自分と」

『銀魂』空知英秋 集英社 211訓


不貞腐れて不自由に生きるか戦って自由に生きるかの選択をするのは実際には難しくても、どちらがより善かについてはほぼ満場一致するように思う。それをそう判断する理由が分からなくても、それがしかしその人にとって善であると理屈抜きで疑えないものなら、それを求め続けることが人間には必要になる。それが絶望と苦しみの曇天の最中にあっても希望を持って抗い続けることの出来る力となる。それはどこにあるか。「てめーの太陽」にある。習慣化した「俺の武士道」でその善を目指す理由は幸福のためと言ってもいい。しかし幸福のためなんて殊勝な言葉は銀魂のキャラは誰も言いそうにない。それなら高杉のように「ただ壊すだけだ」「腐ったこの世界を」と言ってもいいかもしれない。どちらも同じことだ。それは銀さんも常にしてきたことであり、「てめーの太陽」「俺の武士道」のために小心な自分、臆病な自分と常に向き合う必要があった。銀さんの敵は常にそうしたものだったからこそ神威のように最強の称号に頓着しなかった。

「ずっと探し物してるような奴」


銀さんにとっての敵とは自身のそうした道を阻もうとする己自身に他ならなかった。

「てめーにゃ誰かを護るなんてできっこねーんだ 今まで一度だって大切なもんを護りきれたことがあったか?」
「てめーは無力だ もう全部捨てて楽になっちまえよ…お前に護れるものなんて何もねーんだよ!!」

「オメーが捨てたモンの中には大切な荷も混ざってたんだよ 仲間を捨てた?違う 仲間を失うのが恐かったんだろう 一人で戦ってきた?違う 最初から一人であれば孤独になる苦しみもねェからだろう 己を捨てた?違う てめーは背負う苦しみも背負われる苦しみからも逃げた ただの臆病者だ」
「臆病者の相手は臆病者で充分だ」

『銀魂』空知英秋 集英社 13訓 260訓


春雨編の夢で銀さんを罵る屍の声は銀さんの自責の声であり、地雷亜編で銀さんが地雷亜に向けて言った言葉も自身に向けて言った言葉になる。
銀さんが万事屋を始めた理由は空っぽだったから何でもやってみようという事だった。その時期が戦争が終わった十年前なら、彼は新八や神楽が万事屋に入るまで一人で十年間運営していたことになる(ただ195訓の旧万事屋の話もあるが)



昔の銀さんの状態についてはお登勢さんが猫のホウイチにこのように語っている。

「どこで何おっことしてきたのか知らないけどね
ずっと探し物してるような奴だったよ
何にでも頭つっこんでてめーの身体張って他人様の大事なモン護ってた
まるで何かをつぐなうように
そのくせ自分では何も持たない誰も寄せつけない
ずっと一匹だったアンタみたいに
失う恐さを知ってしまったからなのかそれとも同じ思いを人にさせたくなかったのか
もしかしたらてめーに罰でも与えてたのかもしれないね」

『銀魂』空知英秋 集英社 279訓

戦争で仲間を失った経験から同じような苦しみを再びするのを避けるために誰とも関わろうとしなかったことが推測できる。しかし生きる以上は誰かと関わらざるを得ない。それは背負い背負われ助け助けられるという風に相互に援助し合うことだ。銀さんにとっての敵とは常にそれを拒もうとする己の臆病さ、弱さだった。仲間を救えなかった罪責の苦悩がそれを許さないため、彼は自分で自分に罰を与えてた。そうした懊悩が人の形となって現れたのが最後の敵である虚と呼んでもいいと思う。夢の中で銀さんを罵った亡霊、それはもう一人の銀さんとして常に銀さんの内側にあった。師の松陽と同じ顔をしている虚が初めて登場した時に亡霊と言って斬る銀さんに対し、朧はこのように言う。

「何度斬ろうとも逃れられぬぞお前があの時背負った業からは 天に抗う限りお前は松陽を殺し続ける運命だ」

『銀魂』空知英秋 集英社 545訓



虚が運命であるなら、銀さんの敵は自身の運命になる。彼にとっての戦いとは自身の運命に抗い信念を通そうとすることになる。



孤児だった銀さんは松陽と出会い成長し、松陽が開いた松下村塾で高杉や桂と一緒に学んでいる。松陽が幕府に囚われた時に救出に行くも高杉や桂も捕まりどちらを犠牲にするか選択を迫られた。銀さんは松陽が大事にしているものを知っていたために、彼の弟子である高杉や桂を救い、自ら松陽を斬っている。そのために高杉との約束を反故する結果になった。


銀さんのその時の苦しみについてははっきりと述べられていなくても、銀さん同様に師であり親である先代夜右衛門を斬った朝右衛門の台詞からそれを推測できる。

「なぜならその罪人は私にとって「法」そのものだったから
私を拾い育て厳しくも温かく包みこみ生き方を教えてくれた何よりもかけがえのない存在だったから
わしを人に還してくれるかお前のその剣で
そう言ったあの人の目は確かにいつもと変わらない温かい…人の目でした
全てを忘れ鬼にならなければ斬れなかった
誰より大切な人を人として死なせてあげる事もできなかった」

『銀魂』空知英秋 集英社 465訓



理由はあれど「護るべきものも護れずに生き残って」「死んだと同じ」状態になった。地雷亜が妹を護れなかったために自身を責めて憎悪したようにおそらく銀さん、また高杉たちもそうしたのだろうと推測する。そうした銀さんに再び前に進む力を与えたのは彼を護り彼に護られる存在だったのかもしれないとお登勢さんは言う。それは銀さんがそれを失う恐さからそれを拒もうとする己の臆病さ、弱さと戦い、そうした存在を捨てて失わない苦しみよりそれを拾って失う苦しみを選択したことでもある。

「苦しみの中に大事なもんがある」


苦しみの回避が不可能な選択においてどのような態度でそれに望むべきか。それは既に一話の時点でお妙さんが示している。

「こんな道場護ったっていい事なんてなにもない苦しいだけ…
…でもねェ私…捨てるのも苦しいの
もう取り戻せないものというのは
持ってるのも捨てるのも苦しい
どっちも苦しいなら
私はそれを護るために苦しみたいの」

『銀魂』空知英秋 集英社 1訓

苦しみの排除は生活の上で人が自然に求めるものだとしても、それを生活や社会の目的にすると不可避の苦痛へ対処する力を人間から失わせてしまう。お妙さんの態度はそうした社会の盲点を補っている。こうした態度は銀魂で一貫して変わらなかった。盗み癖がついているキャサリンに対して性分で苦しむなら自分が変わる方で苦しみなと言うお登勢さん。夜兎の闘争本能に対してもがいても変われなかった神楽は、どうせ苦しいなら自分と戦い続けることを選ぶ。もがいても変われない苦しみを持ち、その上で何かを得ようとしているのは他の人物の多くにも共通していた。そして社会の弱点である苦しみの回避を目的とした役割を持っているのが、銀魂の敵としても現れている。芙蓉篇の博士は娘を失った苦痛からの回避のために自分自身をカラクリにして暴走した。そうして父である博士を失って悲しむカラクリのタマは銀さんとこういう会話をしている。

「不安定で思考回路もうまくはたらきません
逃げ出したい…………これが苦しいという感情ですか
私はどうすればいいんですか
どうすればこのバグから復旧できるのですか」
「バグじゃねーよ苦しみはお前が正常に機能している証拠だ
だから逃げる必要も恐れる必要もねェ」
「誰だって壁にぶつかって全部なげだして逃げてー時はある
だが苦しい時ってのは
てめーの中の機械が壁ぶち破るための何かを生み出そうとしてる時だってのを忘れちゃいけねー
その苦しみの中に大事なもんがある事を忘れちゃいけねェ
みんなめんどくせー機械背負ってのたうち回って生きてんだ
そりゃオイルがもれる事もあらァ
好きなだけたれ流せばいい
それでも止まんねェ時は俺達がオイルふいてやらァ」

『銀魂』空知英秋 集英社 146訓


誰でも苦しむことは嫌なことだと共通していても、その上でそれとどう向き合うかは選ぶことができる。男女の性別が入れ替わる話でも、性別のことで悩んでいた九兵衛は銀さんとこういう会話をしている(なんかオレ引用ばかりしているな…)

「自分で災いの種をまいておきながら
みんなを巻き込んでおきながら
自分の欲望のために諦めた振りをしてそれを甘受していたんだ
そうとも知らずにみんな僕を気づかってくれたよ
こんな事はへっちゃらだって僕を励ましてくれたよ
彼女を泣かせるなだと…笑わせるな
泣いていたのは…お前の方じゃないか
僕は……男らしくなんかない女らしくなんかない
ただの卑劣な下衆野郎だ」
「そのチケットを選び男のまま生きるのか
このチケットを選び女の身体を取り戻すのか」
「どちらを選んでもきっとあなたはそうして迷い続ける事でしょう
でもそれでいいじゃありませんか
あなたのなりたかったものはそんなに簡単なものなのですか
男らしいとか女らしいとか
そんな誰かが勝手に作った価値観があなたの目指していたものだと
そんなもので片づく話なら男も女もそしてあなたも
俺もみんなこんなに苦しんで生きちゃいない
みんな同じだ九兵衛
迷って生きてんのはお前だけじゃねぇ
男らしいとか女らしいとかややこしい事はよくわからねェ
だが一つだけ言える事がある
やられっぱなしで終わんのは俺達らしくねェ」

『銀魂』空知英秋 集英社 441訓


帰結するのはやはり他人の作った価値観ではなく己の規律だ。苦しみに対する態度は畢竟そこに極まる。部分的には改善できるところは改善した方が間違いなく生きやすくはなる。しかしそのために苦痛を完全に排除できなければ満足できないということになれば一生を不平不満ばかりで過ごすことになりかねない。だが銀魂の彼らは苦痛のないのが幸福ではなく、不可避の苦痛を自ら選ぶことでその中で不幸でも幸福に生きようとする。こうした考えは西洋思想や東洋思想以前の、何かしら古くから行われてきた一般民衆の普遍的な智慧といった感じがする。


朝右衛門が19代目夜右衛門を継ぎ、万事屋に出会って私に大切なものを思い出させてくれた、人に還してくれたと言う。

「もう迷いはしない
ここにいるのは己の罪におぼれる鬼ではない」

『銀魂』空知英秋 集英社 469訓


鬼と呼ばれたかつての銀さんも彼女と同じようにある時期にはその心境に至っていたように思う。たぶん新八や神楽、またかぶき町の人たちに出会い、彼らによって銀さんは人に還ることが出来たのだろう。かぶき町四天王篇でもお登勢さんはこのように次郎長に言っている。

「変わりゃしないさアンタも銀時も どっちも自分勝手なバカヤローさ ただアイツには自分が誰かに支えられているように自分も誰かを支えている存在だと気づかせてくれる奴等がいただけさ」

『銀魂』空知英秋 集英社 309訓


ホウイチのように何かを償うように一人でずっと探し物をしていた銀さんはそのようにして救われている面があった。背負い背負われ助け助けられる、それよって銀さんは忘れ物を取り戻していった。そういう人間の相互性、絆が銀魂で重視されていた。

「だが俺達不完全体達は…まぎれもねェ」


友情努力勝利を標榜するジャンプの中にあって、銀魂では勝利と努力を重視するような描写はほとんど描かれていない。しかしそれとは対照的に友情の方はほとんど最高善といった形で描かれている。これはある意味創作の性質である現実の補償の表れかもしれない。実社会での競争においては努力して勝利することに高い価値が置かれている反面、友情は必ずしも必須ではない。そうした現実の傾向によってなおざりにされがちな価値を創作は掬い上げる。もちろんそれは作家の性質を通して。


苦しみの利点の一つは、苦しいのは「みんな同じだ」という共通点を持つことが出来る事にある。それによって他者との心の距離が縮まることで共感しやすくなり、また相互扶助も行われやすくなる。金魂篇で完璧であろうとするカラクリの金さんに対し、銀さんは主人公についてこう言う。

「ここには完全無欠のヒーローなんてどこにもいねェ みんな欠点抱えた欠陥品ばかりだ でもだからこそ俺達はつながり合う 互いに欠けたものを補おうと支え合う 俺は一人じゃ何も出来ねェ不完全体主人公だ だが俺達不完全体達は…まぎれもねェ 完全無敵の主人公だよ」

『銀魂』空知英秋 集英社 380訓


この漫画の主人公は浄と不浄を併せ持ったいわば世間からのはみ出し者たちだった。そうした彼らが周りにどう思われるかよりも自分がどう好きに振る舞うかを重視していたことについては、オレのようなはみ出し者にも好ましく思うものがあった。いや、上手く社会に適応できていると思われているような人こそ、名前のない「はみ出し」た感じに苦しんでいるものかもしれない。そういう人たちをも包含するものが銀魂にはあると思う。それは初期から銀さんが言っていたことが示しているように。

『銀魂』空知英秋 集英社 27訓

孤独な苦しみの中に、他者の痛みを共有できる、共に横に並んで生きていける社会的な絆が生じ得る。苦しみを単なる排除すべき悪とは見ず、むしろそういう苦しみを持つからこそ世界がその人にだけ見せる景色がある。



銀魂の敵がその役割を担っていた苦痛を完全に排除しようとする傾向は、しかしその果てに何があるのかも敵は担って見せてくれた。銀魂の敵はそのまま人間の弱さであり、銀さんたちと敵とのやりとりはそのまま日常生活で誰もが持つ葛藤や矛盾の苦しみでもある。そういう動物的な悩みは今後も変わらないとしても、しかしそうした苦痛を互いに分かち合える社会的絆は持ちうるし、それによって互いに支え合って前向きに生きていくこともできる。こうした絆も銀魂が描こうとした時代がいくら変わっても変わらないものの一つかもしれない。絆は直接なつながりでなくてもいいとオレは思っている。たとえばオレは銀魂やそれを楽しむ他の人に対しても勝手に友達のように思っているから(え、迷惑?いいではないか)自分にとって何かしら共感を抱き得る者に対する親しみのようなもの、それは身近な友に対するそれと変わらないように思う。たぶん空知も読者に対してそういう信頼がなければこのような絆の描写は描けなかったのではないか?そんな風にすら思う。

ここまでは主に銀さんの表側。裏側について話すにはやはり虚や高杉を省くことは出来ない。それも入れるとより長くなりそうなので別に分けた。


次→虚について →高杉について
前→銀魂の映画と最終回に感動した話

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