銀魂の映画と最終回に感動した話

アニメ・漫画など

去年アマプラで『銀魂 THE FINAL』を見て感動した。何か満たされたような充足感。ちょうどそれは十年くらい前に『劇場版銀魂完結篇 万事屋よ永遠なれ』を映画館で観たときに感じたもののようだった。映画が終わっても地に足がつかないような浮遊感で、「オレって普段何してたっけ。というより僕は………誰だ」状態で、自分の名前や所属、今している仕事明日することを思い出していかなければならなかった。たぶんそれは実際にはわずか数秒のことだったとしても、その時に味わったそういう感覚は今でも覚えている。それだけ没入していたのだろう。


その感覚を『銀魂 THE FINAL』を見終わった後に思い出した。たぶん家じゃなく映画館で見ていたらよりその感覚になっていたのかもしれない(それとも単にエンディングのSPYAIRの曲に感動しただけか?)
しかし腑に落ちない。というのは、オレは2018年まではジャンプを購読していたので『銀魂 THE FINAL』の内容は知っていたはずだった。翌年の2019年に再開されたアプリでの最終回に向けての連載も読んでいたはず。その時は序盤からいたあのキャラクターがとうとう退場したことに感慨に耽っていた。その後のことは思い出せない。読んだのに印象に残らなかったのか、読んだと勘違いしただけで読んでなかったのか。


ともかく、映画のラスト、最終回はオレの全く知らない展開だった。銀魂の最後はこういう話、という固定化された世界観を銀さんたちが破壊して彼らはどこかに去っていく。いや、彼らはどこにも去らない。銀魂のテーマの一つは「時代がどんなに移り変わろうと変わらないものがある」ことを描こうとすることだった。それはこれまで作中で様々なシーンでアプローチされてきたように、最終回にも現れる。今更だけどネタバレになるので注意だ。

最終回はずっと眠っていたカラクリのタマが目を覚ますところから始まった。タマは虚が引き起こした戦争の時に敵の機械兵器の活動機能を停止させるためにナノマシンウイルス兵器を使用し自身の活動も停止してしまったままだった。


時代は虚との戦いが終わり平和になっていたものの、目を覚ましたのが遅かったのか世界はタマが知っている世界とは変わっていた。あるべきところにあるべきものがない。万事屋もスナックお登勢も消え、タマを知るものは誰もいない。その世界は平和でも、タマは誰もその世界の人を知らない。しかしタマの記憶にはいつまでも過去の仲間との日々がある。それに納得して前を向いていこうと心に決めた時に長谷川さんが現れてからおかしな方向に話が展開する。その世界は長谷川さんがあらかじめタマに吹き込んでいた与太話によって作られた偽りの世界であり、銀さんたちは長谷川さんを蹴り飛ばして虚構の世界が崩れていく(真のラスボスは長谷川さんだったんじゃ?)現れた現実の世界を銀さんたちは駆け抜けていく、そういう終わり方だった。


その終わり方にそのテーマが表れているように思う。これは細かいかもしれないけど、映画のラスト、原作で言えば最後の二ページでは、背を向けて走り去っていく銀さんたち万事屋がどんどん遠くに遠ざかって小さくなっていき、次の最後のページではこちらに正面を向いて走っている構図になっている。これは最終巻の巻頭と巻末の挿絵と同じ構図であり、巻頭では背を向けている登場人物たちが、巻末では正対している。つまり最初は去ろうとする、消えようとする、時代は移り変わる、無常ということに対して、強調したいのはそれでも消えないものがある、変わらないものがあるという信念だったのではないだろうかと思う。


十年前に観た『劇場版銀魂完結篇 万事屋よ永遠なれ』でもラストは同じ構図になっている。この映画は最終章の『銀魂 THE FINAL』と展開がけっこう似ているため、最終章の原型のようなものになったのだろうか。


しかし『万事屋よ永遠なれ』で感動したのはそのテーマではなく、銀魂のもう一つのテーマである「人間の持つ苦しみ」に対するアンサーだった。2004年というけっこう銀魂の連載初期からオレも読んでいたので、銀さんが過去の戦争で何かの苦しみを持っていることは明確な描写はなくても示唆されていたことは知っていた。一国傾城篇や黒子のタスケ篇など明確に銀さんの過去を作者が意識し出したのもこの映画を作った2013年頃からではないだろうか。「人間の持つ苦しみ」については銀さんの過去や、それこそ作中ではラスボスである虚との戦いを通じて描かれていたように思う。しかしオレはこの映画を観て、銀さんは救われたんじゃないかと当時は思った。


その映画のクライマックスはこうだった。未来でその時代の自分を倒した銀さんは一人で過去の戦争時代に戻って当時の自分を殺そうとする。それで当時の自分が敵のウイルス攻撃に感染して未来に影響を及ぼす事がないようにしようとした。未来に残された新八と神楽は未来が変わったことを知るも誰も銀さんのことを覚えていない。銀さんの存在は消えてしまった。


場面は一転して銀さんが過去の銀さんである白夜叉を殺す直前のシーンになる。しかしその白夜叉は変装した長谷川さんだった(やっぱり救世主なのか?)他の仲間たちも未来から銀さんを助けに行く。彼らは過去の改変で銀さんの存在がなくなっているはずなのに覚えている。そしてその今の銀さんの仲間たちに襲い掛かる敵の攻撃を、事情を全く知らないはずの過去の銀さんの仲間である攘夷志士時代の桂、高杉、坂本、そして当時の銀さん自身が防いで助けてどこかに消える。


ここに描かれているのも存在や記憶が消えようとも消えないものがある、過去によって失われるものは何もないという信念であると同時に、このシーンは銀さんの心理を強く反映していると当時は思った。事情を知らないのに過去の仲間が今の銀さんたちを助けるのは、彼の中で既に過去は辛いだけのものではなくなったからであり、それは今の銀さんの仲間たちによってそのようになった、それが銀さんの仲間たちが銀さん個人の過去に介入したことに表れている、そんな風に当時思っていた。たぶんそれで最後の白夜叉のツラの意味もわかる。過去の改変で未来の銀さんたちが消えていく中、事情を全く知らないはずの白夜叉が笑って彼らを見ているのは、彼が今の銀さん自身だからだ。彼は未来の彼らのおかげで自分が救われたことを知っている。その意味でこのシーンは銀さんの心理を反映しているように思った。そしてそれは去年見た最終章での銀さんの魂にいて虚から銀さんを護る高杉や、新八や銀さんがずっと松陽に言いたかった感謝の場面を見て改めてやはり同じことだったのではないかと思った。彼の魂にいる彼らが彼を常に護り、白夜叉のツラは処刑される前の松陽と同じツラをしている。その表情が語っていることはどちらも同じだろう。また、もしその当時の時代の坂本、桂、高杉が何か台詞を言ったとしたなら、それは洛陽決戦篇で彼らが銀さんや新八に言った台詞と似たような感じになるのではないか?

「銀時お前はそのスキにここを突破しろ わしらがここに来たのは旧き友のためだけではないさ 銀時お前が見つけたこの国を支える今の友のためにこの古き友を使うてくれ」
「銀時旧き友はもう大丈夫さ いってくれ今お前が本当に護りたいもののために戦ってくれ」
「小僧俺はそんなもんのためにてめェの命を拾ったわけじゃねェ 銀時の首を誰にも渡すな」

『銀魂』空知英秋 集英社 575訓



「苦しみ」やそれに向かう姿勢については中期までの作中ではゲストやその敵を通して主に描かれていた。しかし朧や虚が登場したあたりからは銀さんにも焦点があたることが増えていた。虚という存在自体が、人間の置かれた空虚、虚無という根源的な状態を暗示するような存在だったこともあり、過去にそういう状態だった銀さんがそれと対峙するということは不断にそういう状態から再生しようとすることだったように思う。



最終章の最後の決戦はターミナルという銀魂の世界の中心で行われた。そこで虚を倒すということは、それまでの世界を壊して新たに再生することを意味する。それは銀さんが自らの手で現実を作り出すということであり、それこそが生きるということを意味するのだろう。そしてそれは本人の力であると同時に、仲間の助けもなければ実現しなかった。これも『万事屋よ永遠なれ』で描かれたことと同様に「苦しみ」に対する一つのアンサーであるように思う。つまり銀さんは過去から救われたのではないかと。その言葉はしかし銀魂には合わないかもしれない。前よりちったぁマシになったくらいがちょうどいいだろうか。描かれたこのような壮大な出来事は、しかし日常で誰もが行っていることでもある。生きるとは己の中の虚を不断に斬ることでもあるのだろう。それなら虚が消えることもまたない。それはドナルド・ヅランプなみのしつこさで蘇ってくる




















「忘れるなヅランプはお前たちをいつも見ている そしてもしお前達が心を忘れ正道を踏み外した時は必ずや天誅を下しに来るだろう」

『銀魂』空知英秋 集英社 704訓


その前に藤子不二雄に天誅を下されそうだが



こだわりがないことがこだわりと初期に明言していた作者が最終回の果てを超えてまでこだわって描いた理由の一つは、作者が漫画家になった動機にあったという。


「なんで今迄時を動かさなかったのに動かしたかというと ぶっちゃけ二年後の話はエピローグのつもりで描いてます 銀魂の物語はほぼ終わっています ただ天空の城ラピュタのエピローグでパズーにもシータにもラピュタにもおいていかれてさびしくて漫画家になった僕が そこで読者をおいておわるわけにはいかないなとなりまして エピローグを突き抜けたさらにむこう側を描ききろうとしたら最終回も突き抜けてたワケです。すみません」

『銀魂』 空知英秋 集英社 75巻 


 
銀魂読者なら思い当たることのあるジブリパロディ。中でも確かにラピュタをパロッた話は多く、話のタイトルの一つに「何回見てもラピュタはいい」というものがあるくらいだ。どんだけ好きなんだ空知



ラピュタにおいていかれた寂しさから漫画家になったという話は他でもしている。そこから作り手側になろうと決めた空知が目指したのは、ラピュタを超えるものを作ることだったのではないかと思うけどどうなんだろ。


大河ドラマ新選組に便乗しようとしてはじまった銀魂(その前はハリーポッターに便乗しようとしていたらしい)の連載十年後の2013年に公開した映画『万事屋よ永遠なれ』と最後の長編を映画化した2021年の『THE FINAL』。この二つに共通している構図については先に話した通りだった。もしかしたら無常の寂しさの原点はラピュタにおいてかれた切なさだったのだろうか。二段構えの構図は、それを超えるための、つまり置き去りにされた過去の空知を今の読者を置き去りにしないことでどちらも救おうとすることだったのではないか(考えすぎか?)



オレが十年前に観た映画や去年観た最終章で味わった充足感は、こういうところから来たのではないかと感想を書いてる今思った。


シリアス展開が続く中でも隙があればギャグを入れる余裕を忘れてはいなかった銀魂。ギャグとシリアスが交互に訪れ、笑って感動できる作品は、そのまま緩急のある生活、人生に沿うものでもある。完結してもオレはさよなライオンとは言わない。なぜなら現実とは自ら作るものだからだ。銀魂後祭り2023の開催や、他のイベントもそうだろう(20周年記念イベントなども)。銀魂は美しく生きることを描いていた。その美しさは永遠かもしれない。それはキレイなものである必要はなく、便所に長年こびりついてる汚れのような色をしているかもしれない。永久に不潔で良い。こんな風に思えるのは作者が常にケツの穴を全開にして描いてくれたおかげだ。過酷な週刊連載から解放され今頃あのゴリラも念願のチーズ蒸しパンになっているのだろうか。

………関係ないが原作でもアニメでも初期から土方や山崎と一緒にいながら一度も名前を呼ばれなかったスキンヘッド原田右之助をオレはウォーリーを探すかのように隠れキャラとして探し、見つけたら「お、まだいるじゃん」と一人ニヤリとしていた。なんだかんだ変わらず最終回までちゃんといた。相棒の山崎は途中でランボーになったりロボコップになったり一番変化したけど。


続き→銀さんについて →虚について →高杉について

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