【Fate/stay night】桜の影について

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Fate/stay nightのHeaven’s Feelルートで気になった桜の影について、ユング心理学の影を参考にして探ってみたい

ユング心理学って何?

心には意識だけでなく人類共通の太古の記憶につながる普遍的無意識があるとする仮説みたい

ほんげ~

桜の影の本体は、過去の聖杯戦争で敗れて人格を失い呪いの力となったアンリマユという、人々に悪を望まれた存在だった。聖杯に取り込まれたその存在に与えられた人々の悪であれという望みを聖杯が叶えたために、人々の悪意、殺人衝動が聖杯の中で成長し続けた。桜は過去に呪われた聖杯の一部を埋め込まれたため、また桜自身の持つ特性のため、その悪意の力に栄養と実像を与える機能となった。そのため、桜自身に殺人衝動はおそらくなく、それは聖杯のうちにある悪意にあるため、桜自身とは無関係といえる。 

こうしたアンリマユと桜の関係は、ユング心理学でいう影(シャドウ)との関係に似ていると思った。影は無意識にある自律的コンプレックスのうちの一つで、それは意識とは別に独立した客体としての存在だった。影は意識にとって受け入れられないために抑圧したものが多いという。 

HFルートでは桜と影は一体化に近づいていた。しかし他のルートではそうなってはいない。理性がある限り桜と影は一体化しないということから、HFルートでは理性、意識に危機が生じていたことになる。それは桜の意識が他ルートと異なり様々なアンビバレンスな感情や想いを抑圧しているためだと思う。士郎に傷ついてほしくない想いと、傷ついてほしいという想いが生じたとき、桜は自責の念に駆られている。だが、ユングによればこうした否定的な性格は誰もが持つものであるとしている。しかし劣等な感情を抑圧することを長年続ければ、いずれ歪な形となって噴出する。 

子どもの頃から言いたいことを言えずに抑圧してきたという描写がされていることから、それだけ桜は長期にわたって自分の意識に合わないものを排除してきたことになる。ユングの『創造する無意識』によれば、心とは体と同じく一個の「自動調整器官」のため、意識の方向性を調整する対抗作用が無意識にあると仮定している。だが、抑圧するということは意識に合わないそういう対抗作用は排除することになる。そのため、文明人の心は自動的な調整が鈍感になり、恣意的で一面的な方向にのみ進むという一個の機械のようになっているという。対抗作用の抑圧で意識の方向が加速されるため、心の分裂をきたしやすいのが文明人の特徴だという。影と一体化しつつあった桜にもその症状は表れている。 

“少女の意識はそれで終わった。いや、正確に言えば代わった。いままでフタをし続けた無意識が、ただ表層に浮かび上がっただけ”という、桜の人格の変化を表している描写がある。悪いのは自分ではなく周りであり「強くなれば、何をしても許される」と言うように、代わった桜は何よりも自分を優位の存在としている。 

だが綺礼は、そうした桜を別人格ではないとし、異なる人格を用意し、言い訳をする必要はないと述べている。それに対して桜は否定せず怒りを露わにしている。綺礼がそのように考えたのは、おそらく切嗣が私情を捨てて目的の追求に徹した際に、“冷徹”な人格を用意しなかったことにある。「“冷徹である”という異なる人格を用意すれば容易いものを、そんな人間では聖杯に届かない、届く価値がないと信じたのだろう」綺礼からすれば、桜は暴力に酔うという目的のために異なる人格を用意したと見たのかもしれない。  

ユングの『タイプ論』では、人間はその人がどのようなタイプであれ、意識の機能と無意識の機能を持ち、前者を能動的な優越機能とし、後者を受動的な劣等機能としている。前者を分化発達した意識的な人格とし、後者を未分化な無意識的な人格ともしているため、桜の人格の変化とは、単にこれらの機能の入れ替わりのことを指しているのかもしれない。劣等のために意識に抑圧される無意識的な人格も、それが現れるときにはわずかに意識を備えているため半分以下は意図的にされることもあるという。 

実際、桜が別人格を持っていたかは素人のオレにはわからない。ただサーヴァントが消滅するたびに聖杯の機能を持つ“桜という人格が、また一つ端に追いやられていく”ために桜の意識が薄まり“いままでフタをし続けた無意識が、ただ表層に浮かび上がった”ことは確かだと思った。以前大阪で起きた解離性同一性障害を持つとされる被告人による殺人事件では、二人のベテランの精神科医による鑑定は真っ向から対立した。別の人格が存在するのか、単に演技なのかは専門家の間でも見解が分かれる。  

ユングは『現在と未来』で、第二次世界大戦前に診察していたドイツ人の患者たちの共通点から、当時のドイツ国民を劣等感から生じた集団的なヒステリー性の人格分離と見た。「ヒステリーとは、一方に誇張や過度の高揚が見られても、他面にはそれ自体は正常ないくつもの機能があって、ただそれが衰弱して一時的な不遜に陥っている状態に他ならない」ためにヒステリー患者の圧倒的多数は「正常」な人々だとユングは述べる。桜の状態もこれに近かったのだろうか。  

ドイツ民族は無意識と意識の閾値が他民族より非常に低く、無意識の影響を受けやすいのと「ドイツの破局はヨーロッパ全体の疾患の一つの峠」とユングは見た。西洋人はこれまでキリスト教道徳の善に適うもののみを受容れ、それに合わない否定的なものは排除し抑圧し、自身の内にある葛藤などを承認せずに済ませてきた。「これはひとりドイツだけの運命ではなく、ヨーロッパの運命である。われわれ一人一人が、この時代の人間の背後からむっくりと身を起こした影を認めなければならない」自身を顧みずただ当時のドイツだけを悪と妄信する見方は、当時のドイツと変わらない。たとえ直接的な罪はないヨーロッパ人でも、ヨーロッパの負った連帯責任を認め、集団的な罪責の自覚が必要だとユングは考えた。「自分自身の悪や罪を知ることは、決して些細なことではない。そして自分の影を見失っては、およそ得るところがない」「罪の自覚があってこそ、それを改め善くすることもできる」  

自身の悪や罪を認めることを止め、放棄しかけた桜に対し、自身の悪や罪を見続けていたのがHFルートの士郎や綺礼だった。二人は生誕の時に理不尽に与えられた絶対悪のために“共に自身を罪人と思い、その枷を振り払う為に、一つの生き方を貫き続けた。──その方法では振り払えないと判っていながら、それこそが正しい贖いだと信じて、与えられない救いを求め続けた” 

ユングはどんな政治改革や社会改革よりも、自分自身とまず正しく対決していなければ意味がないとした。科学と技術という外部ばかりに目を向け、肝心の人間の方を顧みられなければ、道義的にも心理的にもそれらに順応できず、自身の背後で影が狙っていることを感じられないという。影や悪を背負って生きるには外から与えられるものによってではなく各自が努力で達成するほかないとユングは述べる。  

Fateという物語において、士郎の戦いとは自分自身との戦いだった。綺礼は士郎との戦いで「私とおまえの戦いは外敵との戦いではなく、自身を賭ける戦いという事だ」と述べ、士郎も“この“敵”に打ち克つ事だけが、残された最後の意味だった”と述べている。士郎がこれまで戦って克ってきたヘラクレス、エミヤ、ギルガメッシュなどの“敵”とは自身の葛藤という大きな壁であり、自身を不安にさせて諦めさせようとする心の声でもあった。救いが外から与えられるものではないのなら、士郎が剣という彼の属性に関わる内なる戦いをしたように、誰もが各自の性質に関わる戦いをする必要があるのかもしれない。  

桜も凜もそれぞれの置かれた環境や担った役割の違いから、実の姉妹でありながら二人はありのままの自分でいられなかったために、桜はこれまで凜に対して温かさを求めていたのにそれが得られなかった。それが桜が一番抑圧していた想いであり、そのために桜は様々な否定的な感情を溜め込んできた。士郎が自分に出来る一番桜のためになることは、二人の壁を取り除くことと述べているように、桜と凜が役割から解放され、二人がありのままの自分に戻ることが桜の問題の解決になった。臨床心理学博士の岡本茂樹は、人が心の病気になったりいじめや犯罪行為をしたりする原因は、子どもの頃から言いたくても言えなかったことのために負の感情を溜め込んできたことにあるという。長年鬱積していた負の感情を吐き出すことが、問題の解決にはまず何よりも必要ということだった。桜が凜に対して繰り出していた影の攻撃は凜に対する負の感情の暗喩であり、それらを吐き出しきったために凜の心を知った桜は素直にそれを受け入れることが出来て、結果的に両者の壁は取り除かれ、桜は以前の状態に戻ることが出来たのかもしれない。 

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