【Fate/stay night】言峰綺礼の目的について

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言峰綺礼の目的について考えてみたい 

どういう目的? 

自分が生まれたことに価値があるか確かめる為に世界を滅ぼす存在の誕生を肯定したことについてです 

ヤベーヤツじゃん 

ギルガメッシュが一般の道徳や良識に当てはまらなくても筋の通った人物であったように、言峰綺礼も同じように一見理解は出来なくても裏では道理を持った人物として描かれている。生まれながらの悪の存在アンリマユの誕生を肯定した理由とは何だったのだろうか。 

Twitterで綺礼を知るにはHollowが良いというのを見かけたけど、stay night時点で思っていたことを書き残していてもいいかと思った。 

世界を滅ぼすアンリマユの誕生を肯定した理由

綺礼は“生まれつき人並みの幸福実感”がなく、人とは正反対の道徳感情を持って生まれたため、人が善や美を抱くものとは逆のものにそれらを見出していた。そのため人が持つべき幸福感を得ることは出来ず、世間と隔絶された疎外感を抱えて生きてきた人物だった。士郎は人と同じ価値観を持ちながら、その在り方の為に幸福感をやはり得ることが出来ず、世間との隔絶や疎外感を抱えていたことは綺礼と同じだった。それは被災の時にそれまでの人格を含む全てを失い、犠牲になった人たちの為に人々を助ける存在にならなければ存在することが許されないという、全く別の人物として再び生まれ変わらなければならなかったためだった。綺礼はそのため士郎を自身と同じ生まれながらの欠陥品と呼んでいる。 

「おまえは私と似ている。おまえは一度死に、蘇生する時に故障した。後天的ではあるが、私と同じ“生まれついての欠陥品”だ」

『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより

両者はその欠陥のためにこのように思っている。 

“共に自身を罪人と思い、その枷を振り払う為に、一つの生き方を貫き続けた。──その方法では振り払えないと判っていながら、それこそが正しい贖いだと信じて、与えられない救いを求め続けた” 

『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより

一方で綺礼はこのようにも述べている。 

「もとより私に望みなどない。ランサーを得たのも、より良い“願望者”に聖杯を与えたかっただけだ」 

「望みはないが目的はあった。だが、それは聖杯で叶えるべき事ではない。私の目的はそれほど真剣なものではないし、私本人が叶えても意味のないものだ」 

「私とおまえは同じだ。明確な望みがない者同士、救いなど求めてはいない」

『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより

 

聖杯戦争の監督役の綺礼は、その役割から聖杯を得るに相応しい者にそれを与えるという目的があった。同時に、その役割とは別に欠陥品としての個人的な目的も持っている。十年前の聖杯戦争で、非常に徹して殺戮する切嗣という存在に綺礼は注目した。それは、切嗣が自らを悪とする在り方をすることで、自分の力では実現できない平和という理想を聖杯によって叶えようとしたためだった。だが結局切嗣は自ら聖杯を破壊した。 

「ヤツに憤怒を覚えたといえば、まさしくあの瞬間だったろう」

 「一人の人間が望んだ“平穏”がどのような形になるのか、興味深くはあった」 

『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより

綺礼にとっては、望みの内容は何でもよく、その監督役という在り方と、欠陥品という在り方という二つの在り方から、自身と同じような存在、自らを悪とするものに、聖杯を与えたいという目的があったと考えられる。綺礼が与えられない救いを求め続けながら、聖杯に対しては明確な望みはなく、聖杯による救いなど求めていないと言った理由もそこにある。それはおそらく、明確な望みを持たないというより、欠陥のために持てないというためであり、それを持つためには、自身のような欠陥を持ち、自らを悪とするものが何を望むのかという比較対象を必要としたということだろう。Fateルートで綺礼が士郎に聖杯によって望みを叶えさせようと強要した理由もそれだ。綺礼がアンリマユの誕生を肯定した理由もそれと関連する。 

アンリマユという存在は、元々は人々の望んだ悪を背負わされて生贄にされた人物で、それが聖杯に取り込まれた時にアンリマユは人格を失いただの呪いの力となり、その存在に与えられた人々の悪であれと言う望みを聖杯が叶えたために、その悪意が成長し続けた存在だった。そのためそれが誕生する時は以前のアンリマユという人物とは全く別の、何千年もの前の人々の望んだ悪のみが増大した単一神、破壊の権化が生まれることになる。それは人間が自身を善としたいために他者に押し付けてきた悪によって世界を滅ぼす兵器が誕生することを意味した。 

この兵器は、人々にとって不都合な存在だ。しかし綺礼は、それが悪であっても、それが生まれること自体に罪はないと述べる。「stay night」の悪についての考えは次の箇所からも読み取れる。 

“彼らの神は唯一絶対。至高にして善なるもの” 

“それが自らの子である人を穢し、自らが創造した世界を汚す魔などを容認する道理がない” 

“その矛盾を、彼らはこう定義した。即ち。人を脅かす魔ですら、主が構築した世界に必要な欠片、愛すべき被造物なのだと” 

“時に天の計りは、人の子に天の無力さを錯覚させた。人智及ばぬ魔の所業に、偉大なる主の奇跡を求めさせたのだ。以ってここに特例が生じた。主の教えを説くのではなく、人の身でありながら主の代行を成す使徒が赦された” 

『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより

しかし魔を撃滅する代行者の存在は、それ自身が神の絶対性を否定している。結局は人間にとって不都合な存在を神ではなく人間自らの意志や努力によって消滅させようとしているためだ。それが魔でも生まれるものに罪はないと言う綺礼自身が、魔を滅ぼす代行者でもあるという矛盾した存在でもある。しかしこの矛盾自体は大した問題ではない。要は、やはり人間は自分たちにとって不都合な存在を排除したいという厄介な性質を持っているということだ。それがアンリマユを生み、人間を滅ぼす兵器になる。それは人間の内部に常に潜在するもう一人の自分でもある。兵器は人間の悪を押し付けられた犠牲者、生贄であるため、綺礼は関心を持った。士郎、切嗣という人間の悪を押し付けられた機械という犠牲者に綺礼が関心を持ったのも同様の理由だった。 

「生まれながらにして持ち得ぬもの。初めからこの世に望まれなかったもの。それが誕生する意味、価値のないモノが存在する価値を、アレはみせてくれるだろう」 

「何もかも壊したあと、ただ一人残ったモノが、果たして自身を許せるのか。私はそれが知りたい。外界との隔たりをもったモノが、孤独に生き続ける事に罪科はあるのか」 

『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより

アンリマユ以外滅びた世界では、綺礼が実際にそれを知ることは出来ない。それでもアンリマユの誕生を実現させようとしたところに綺礼の真の目的があるように思う。それは人々にとって不都合な存在であるため誕生を否定される存在に対し、価値を見出し、存在を赦そうとしたことにあるのではないだろうか。その理由は二つあり、一つは自身の生まれついての在り方から、同様に世に望まれずに誕生したアンリマユの唯一の理解者足り得る思いがあったからかもしれない。 

もう一つは、人並みの幸福を目指していた頃の綺礼の過去、妻との思い出にあり、おそらくこちらが真の理由と思われる。結局は幸福を実感出来なかった綺礼ではあっても、その妻は綺礼の最大の理解者だったという。“人を愛せる。生きる価値のある人”という言葉を遺して死んだ妻に対して綺礼が悲しかったのは、自分の手で下すという快楽を得られなかったためか、それとも愛していたか分からなかったため、答えを出すのを止めたという話だった。それは無意味な女の死を無価値にしたくなかったということだった。そういう思い出が綺礼を支えることで、自身が“人を愛せる”ということも肯定出来るようになったのではないだろうか。それは士郎が切嗣との思い出に支えられ、それによって自らを肯定してきたことと類似している。 

おそらくそうした理由から、綺礼はアンリマユの誕生を肯定したと思った。 

もう一人の主人公として

そういう綺礼に対し、主人公の士郎は一つの命を守るために世界中の全てを犠牲にするのは間違っていると主張する。対して綺礼はこう返す。士郎自身も桜一人を守るために周りを犠牲にしてきたではないかと。自身の在り方に無自覚であったことを気づかされ、それまで相容れないと思っていた相手が共通の在り方をしていると知り、敵対心とは別の感情が生まれてくる。士郎と綺礼はそういう面でもある意味鏡だった。製作者たちの話にはこうある。 

『Stay Night』は絶対悪のいない話にしようと試みたものです。分かりやすい悪を求めると、結局「一方的に断罪できる何物かを求めている」と思う自分が一番醜いことに気づいてしまう。最終的に言峰や臓硯が悪いと思っていたら、臓硯は悪人だけど、その志は高いものだった。言峰も最後の最後の対面で、主人公である士郎の“鏡”だった。“この世全ての悪”という分かりやすい演題の形に対する物語ではあるので、そういった意味で言峰は影の主人公なんです 

TYPE-MOON『Fate/complete materialⅠ・Ⅱ・Ⅲ』 株式会社KADOKAWA 2018年3月 311ページより

二人の主人公の在り方は、一人を守るか、多くを守るかという功利的な問題に対して、自身の側に属し愛情を持ち得るか、そうでないかという残酷な差別を選択の基準にする在り方でもある。 

ある街に熊が現れて、その熊を撃ち殺したことに対し、ネットで意見が割れているのを見かけたことがあった。熊を殺すのは可哀そうという意見と、害獣のために処理すべきとする意見だった。処理すべきとした人たちは、可哀そうという人たちは熊が現れない街に住んでいるためにそう言うと述べていた。熊を殺すのは可哀そうと思うのも人間の感情として当然生じるものであるのと同時に、自分たちに害を成す存在は排除すべきとするのもまた人間として当然持つものでもある。そういう相容れない両極性を人間は持つ。 

士郎が桜を守るのも、綺礼がアンリマユを守るのも恐らくそうした理由だ。士郎が他人の命より桜の命の方を優先したのと同様に、綺礼も六十億の人間よりアンリマユを優先しようとしただけだ。人間が社会的営み、共同体を持つ限り誰もそのように差別をすることから逃れられない。綺礼や士郎ではなくても、そのことについては誰もが生まれついての罪人なのかもしれない。 

臓硯たちは平和の実現のために何万年もの末に人間という種の成長を願っていた。人間の精神の発展にはそれほどの時間が必要なのだろうか。しかし種の成長ではなく、個に関してならばStay Nightという物語を見るに、全く手に負えないものとは思えない。聖杯戦争とは人々が生涯を賭けて得る願いを短縮させるものだったように、物語というのは、人間個人の生涯に長期間ついてまわる悩みや葛藤というのを短縮して見せてくれるものでもあるかもしれない。 

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