スマホでFate/stay night(REALTANUA)をクリアしたので感想をば
どんな話なの?
七人の魔術師が七人の英雄を召喚してあんな事もこんな事も、そんな事まで叶える聖杯を巡って戦う話です
マジでか///
作品の本質は迫力のある戦闘シーンや戦いの駆け引き、日常のやりとり、キャラクターの魅力など娯楽のゲームとしての面白さにあるだろう。でも、オレ個人が特に気になっているのは別の所にあり、そこだけ書きたくなった。
結論 ラスボスは「運命」という名の「世界」
本作はFate、Unlimited Blade Works(UBW)、Heaven’s Feel(HF)の三つのルートで構成されていて、それぞれ内容が異なる。ただラスボスは共通していて、主人公の士郎と同じく生誕した時に欠陥を持った言峰綺礼、最強の英霊のギルガメッシュ、「この世全ての悪」とされるアンリマユという存在、その誰かが最後に戦う相手になっている。
しかし思ったのは、彼らは本当にラスボスなのかということだった。真のラスボスは別にいるのではないか。最強の存在のはずのギルガメッシュはHFルートではアンリマユと一体化した桜によって途中退場している。そのアンリマユという呪いの力は元々は村人たちに生贄にされた無辜の者だった。生誕した時に人とは異なる道徳感情を持たされた綺礼はその怒りを「神」に向けていた。そうした自分を超えた「何か」に対して怒りや憎しみを持ったり、絶望したりしているのは綺礼だけでなく、同じように欠陥を持った士郎やエミヤ、また強い自責の念を持ったアルトリアや桜などの登場人物にも共通していると思う。綺礼が「神」と呼んだそれを、彼ら自身の逃れられない「運命」と解釈するなら、この作品はそうした「運命」に対してどのようにあるかを描いた作品とも言えると思った。作品のタイトル名が「Fate」であるのも、そうした意図がある、かどうかは分からない。
しかし「運命」という存在は作品のどこに登場しているのか。それは彼らが自身の運命と対峙するときに、まるで悪魔が誘惑するかのようにして現れている。アルトリアやエミヤの前に現れた「世界」という存在がそれだ。「自分一人を犠牲にして全体を益する」在り方をしている二人が現実に対して「無力感」を抱いたときにそれは現れている。
カタチもなく、人格のある描写もない「世界」は二人に対し、死後に使役する事を条件に望みを叶えるための手助けをする契約を持ちかける。聖杯を得て過去の改変を望むアルトリアは、聖杯を得る為に生きたまま英霊にして貰っている。自分には救えない人たちを救うために力を望んだエミヤは、それに必要な力を与えられている。そうしてエミヤは死後に「世界」によって永遠に使役されるようになる。それは契約前にエミヤが思っていた人助けとは異なり、生前と同じく悪をもって悪を排除することの延長だった。
「世界」と契約する二人は、村人たちに悪と罪を押し付けられたアンリマユ同様、強制的に理不尽な状況を迫られたために自発的な意志で選択できる余地はなかった。それは「自分一人を犠牲にして全体を益する」在り方をしてきたためだった。アルトリアは王や騎士としての役目を果たすために、エミヤは切嗣と交わした正義の味方になるという約束を果たすために、また一人生き残った責任の追及のために目指したものにならなければならないという考えを持っていた。目的の為に私情を捨てた切嗣のように、英霊たちの在り方もその多くは個人としての自分を殺し、全体を益するための機能、役割となっている。
そうした彼らが一方で生前も死後も感じていたのは、常に不当に扱われ、誰かの道具として利用され、誰にも理解されないというものだった。“人間は自身が善良であるという安堵を得る為に、解りやすい悪を求める”“彼らは、あらゆる災害の原因を押しつけられる、都合のいい生贄が欲しかった”“そのシステムだけは、いつの時代も変わらない”と魔女メディアは述べる。そうした彼らの心はエミヤの心象風景やアルトリアのカムランの戦いの側面として現れ、それらは戦争状態の心を意味しているのかもしれない。現代は、分析心理学によれば共同体の目標の為に個人の機能の分化発展を望まれ、個人の存在は無視されやすい時代だという。また政治哲学によれば現代の原則の一つはあらゆるものを一律に評価する考えのため、人間や社会的営みは道具として評価されやすいという。エミヤの世界に浮かぶ巨大な歯車は、消極的な見方をすれば機械化して分裂する意識や機械化した共同体に個人が抑圧されている事の暗喩だったりするのだろうか。こうした状態から解放されることがFateのテーマの一つになっている。解放とは、機能や役割としての自分ではなく個人としての自分、存在としての自分を取り戻すことにある。人間の尊厳を取り戻すことにある。
アルトリアとエミヤが自分を取り戻した時に、「世界」との契約は二人にとって重要ではなくなっている。それは「世界」との契約とは自身を縛る「運命」であったためだった。登場人物が最初から最後まで戦うラスボスである「運命」とは、自身を含む共同体の成員一人一人を含む「この世」でもあるため戦って勝つべき敵ではない。自身を縛る「運命」に対しては勝つべきでなく克つべきで、それにはこの作品で繰り返し描かれていたように、主人公の士郎のように自分自身と戦うことが必要なように思う。自身が善良であるために悪を求めるではなく、HFルートの士郎のように自身の罪と悪を自覚してこそ「この世全ての悪」の一部である自身の内側の悪を他者に投影せず、アンリマユの具現化を防ぐことが出来るのかもしれない。
コメント