エレンについて思ったことを
巨人を倒して人々を守ってたよな
最終的には人類の八割を虐殺します
一体何があったんだってばよ…
アニメ進撃の巨人を数年ぶりに見ると、エレンが人類虐殺をしていたので驚いた。気になって最終話まで読むとこれならやむを得ないと納得した。虐殺というより、仕掛けられた戦争に対する反撃とした方が正確で、先にパラディ島の島民を殲滅しようとしたのは彼らを悪魔と見る世界の人々の方だった。
しかし世界がそうした見方をするのは1700年に渡ってエルディア帝国が他民族を弾圧し民族浄化をしてきたためで、パラディ島民と同じエルディア人であるマーレの被差別階級も、思想教育の影響や自身の置かれた境遇の不満から島民に憎悪や恨みを向けていた。こうした歴史や民族のアイデンティティからの怨恨が、直接的には無関係の今の人々に危害を加えるという根深い連鎖が描写されていた。
エレンが世界に反撃した大きな理由もそうしたコミュニティのアイデンティティから来ていた。仲間や島の人々を守りたいという目的が地鳴らしの動機の一つにある。
地鳴らしの動機
地鳴らしの動機についてエレン自身が最終話で述べていた。
・未來視でミカサの選択の結果が巨人の力を消滅させると知ったため(原因)
・仲間たちに止められる未来がわかってなくても全てを壊したかったため(原因)
エレンの地ならしの動機は上記の原因と目的のどちらにフォーカスするかによっても変わってくる。人々を虐殺して進み続けるエレンに対してアルミンは「君のどこが自由なのか」と言った。この場合アルミンはエレンの根源的欲求である自由を地鳴らしの大きな原因として見ていて、エレンが際限のない自由を求めたためにかえってその奴隷、不自由な状態になったとして見ていた。
また、巨人の力によって未来を見たことでわかった結果を目指して進み続けたことに地鳴らしの動機を見た場合でも、決定論的なものに従っているだけで自由ではないように見える。こうした遺伝や環境と言ったものによって行動を制限されることはある程度事実ではあっても、それを動機とすればその行動は「仕方のないもの」という後ろ向きな見方をせざるを得なくなる。
しかし、そうした見方と同時にエレンは他人や環境に強制されるのではなく、自分で選択する人間は自分を見失わないとファルコに言っていたことがあった。そこには仕方のない原因によって行動させられる不自由な状態ではなく、何かを変えようとする強い意志、目的が見られる。
そこにフォーカスして見れば、エレンの持つ原因も仲間たちの恩恵に関係するように見えてくる。未来の結果も仲間たちの恩恵に与し、もともと困難に立ち向かうと力が湧く性格だったエレンはその力もあって目的を遂行することが出来たようにも見える。目的は原因と違い本人の自由意思が関わるため、エレンの意思を尊重するなら地鳴らしをした最大の理由は仲間のためになり、それが真の動機となる。そのための一種の自己犠牲、献身行為であり、目的が異なればまた結果も違っていた。この見方はアルミンが一時期エレンを自由の奴隷と見た事と同等の妥当さを持つ。
愛と悪
しかしそうしたエレンの目的も自身の属するコミュニティのためであり、地鳴らしの行為の理由もそれだけと見るなら、彼ら島民を悪魔として滅ぼそうとした世界や、過去に世界を支配し弾圧したエルディア帝国としていることは変わらない。最終話ではエレンがもたらした島の平和がミカサが天寿を全うした後、町の建造物が近代化した頃に戦争か何かで壊された描写がある。人間の持つ暴力性や怨恨の根深さが最後までごまかされずに描かれていた。
自身のアイデンティティを形成したコミュニティを優先させるのは人間の自然の傾向であり、自身の故郷や関わってきた人たちを他よりも優先し、その平和のために敵対するものと争うのも当然のこととしてある。そういう故郷や仲間への愛というのは美しいものでもある。しかし誰もがそういう利己心を持つために敵と争うという醜い面を持つということも、進撃や他の戦争を題材にした作品に描かれていることがあった。
そうした道徳的に悪で醜いものを誰もが持つという前提から、互いに共存していく道の模索も可能になるということもサシャの父の異なる価値観を持つ者たちの共存の話やマルロとアニの人間の悪の話から伺える。アニは「他人より自分の利益を優先させ周りがズルを一緒にすれば流される」人たちをクズや悪とマルロが呼んだ人たちも「普通の人間なんじゃないの?」と問いかけている。もしマルロの言うように本来人間が理性を優先する善人であるなら憲兵団という組織は腐ってないとアニは述べたため、必要なのは人間を変える事ではなく、そうした前提に立った仕組みの方ではないかとマルロは考えるようになった。
人間の道徳性自体は個々人によって優劣の差はあっても、根底の所では誰もが自分の利益を優先させる部分を持つ。それを悪とするなら悪人でない者はいないことになる。自分の命を守るために他人を殺めることは正当だとされても、それも利己心に基づいたものになるため、自分たちを守るために敵に手をかけたアルミンたちは自分たちを悪魔、化け物と呼ぶようになっている。ガビも自分たちのために敵を殺めたために自らを悪魔と呼び、ニコロはそうした悪魔を誰もが持つために、森から出ることを求めた。この森から出る方法がマルロの考えたことにあてはまるように思う。
その具体的な方法の一つが、三年前にオニャンコポンがこの島に最も必要なものとして港作りを提案し、世界と交易をしてつながりを持とうとしたことだったのではないだろうか。二年前に港が完成し、他国との結びつきが強く外交に影響力を持つヒィズル国と友好関係を持つ。パラディ島にのみ存在する氷瀑石という資源がヒィズル国が近づいた大きな理由だった。パラディ島がヒィズル国を介して他国と国交を結ぶことが出来たら地鳴らしという抑止の兵器を放棄できるため、ヒストリアを巨人の呪いの犠牲にする必要もなくなるとジャンたちは考えていた。しかし一年前、ヒィズル国はパラディ島の資源を独占したいために他国との貿易に協力しないことがわかり、パラディ島と世界との間の和平を築く道が再び困難になった。ジークの余命も二年未満になるため、ジークの巨人をヒストリアに引き継がせるまでの時間も限られてくる。この時にエレンは誰にも自分の巨人を継承させるつもりはないと仲間に話している。もうこの時点でエレンはマーレへの襲撃や世界へ地鳴らしを発動する覚悟が出来ていたのかもしれない。
少年の姿のエレン
地ならしを発動させたエレンは様々な抑圧から解放され、その道徳意識も子どもの頃の無邪気な本性の状態にまで退行していた。道の世界でアルミンやミカサが座標にいるエレンに向かって進んでも近づけないのは、それだけエレンの状態が普段の状態から離れている面もあったためかもしれない。少年の姿のエレンは少女の姿のユミルと同じ意思を持ち、理不尽なことに対する怒りや憎悪、恨みやルサンチマンから地平の全てを平らにすると述べる。
エレンの持つ自由の観念は、最初からアルミンの持つような外の世界への純粋な憧れというようなものではなく、自分たちを抑圧する者への負の感情と深く混ざり合っていたものだった。これはエレンのような境遇なら当然持つ感情と思える。その抑圧された思いが噴出した表れを地鳴らしの時だけでなく初めて巨人化した時の台詞にも見ることができる。しかしそれが境遇によってもたらされるものなら、彼らに抑圧を強いた人々にも責任がある。
マーレの司令官は、地鳴らし時のエレンの姿は「我々が至らぬ問題のすべてを「悪魔の島」へ吐き捨ててきた」その憎悪を反映した姿であり、この事態を起こした世界中の大人全員にその責任があると述べた。こうした考えは初期にもピクシスが述べていた。現実でも民主主義と社会主義は互いを憎悪し間違っていると見て、断絶は広がり迷妄の森の中にいる。
地鳴らし以外の道を模索すべきと提言し、島の外の人々も島内の人々同様に善人と悪人がいることを知っていたエレンが地鳴らしをせざるを得なくなったのはそこまで追い詰められたためで、仲間たちの平穏を保証する手段がそれ以外になくなったためだった。
エレンが少年の姿の頃まで退行し、コントロールできるようになっていた負の感情に再び憑依されたのも、目的の実現のために命や人間性を捨てさせるまで追い詰められたためで、そうでなかったら根源的欲求が歪な形になることもなかった。少年エレンは人間を虐殺している時に害虫を駆除しているような快適さを表情に浮かべて自由の境地に至ったと考えていた。しかしそのすぐ前のページの回想シーンでは、大人のエレンがこれから虐殺する人たちに謝罪をしている。こうした分裂は戦士の任務のために戦争を起こして無差別に殺戮を行ったライナーが責任感と罪悪感から人格が分裂したような状態になったことに似ているのかもしれない。後にライナーはPTSDと思わしきものを発症していたためか自殺未遂にまで至っている。そこには罪の意識から裁かれたいという理由も見られた。エレンにももしかしたらそのような思いがあったのかもしれない。
また地鳴らし以前のマーレ襲撃後の時点でもそうしたエレンの兆候にリヴァイが気づいているような台詞がある。四年前にエレンの本質である意志の強さをすぐに把握していたリヴァイでも、エレンの表情の変わりように意外そうな顔を浮かべていた。リヴァイによるとその時のエレンの面は「地下街で腐るほど見てきたクソ野郎のそれ」と同じになっていたという。作中での地下街の描写は少ないため現実のスラム街で当てはめてみれば、劣悪の環境のためにモラルや人格が低い状態になりやすいことからエレンもそうした状態に近かったとも見れるかもしれない。
しかし、おそらく「その腐るほど見てきた」面とはかつてのリヴァイ自身のことを言っていたのではないだろうか。ケニーと出会う前のリヴァイとこの時のエレンの表情は、どちらも人間味がないように見えて似ているように思う。この時のリヴァイの状態を推測するなら、昔のヒストリアやアニのように自身に対して価値がなく否定的に思っているようなものだろうか。それが表情に表れているのなら、この時のエレンも襲撃に伴う無関係の人々の殺害による加害の悔恨によって絶望的な心理状態にあるのかもしれない。
しかしエレンがもし強大な敵を凌ぎ状況を変えるためには命や夢、人間性を捨てて殺戮者、悪魔となる必要があるというエルヴィンやピクシスと同じ考えを持っていたのなら、そうした状態に陥るのは最初から覚悟の上だったのだろう。
エレンの真の自由
「全てはオレが望んだこと」としてエレンは人類を虐殺する。それは他人や環境に強制されて仕方なくしたものではないということになる。以前エレンがファルコに言った台詞にも似たようなものがあった。自分自身の意志ではなく他人や環境に強制されて戦場に行った人は心も身体も蝕まれ自由を奪われて自分自身を見失う。「ただし自分で自分の背中を押した奴の見る地獄は別だ その地獄の先にある何かを見ている それは希望かもしれないし さらなる地獄かもしれない それはわからない 進み続けた者にしか」
「自分で自分の背中を押し」現状を運命のせいにしないという確固とした意志が伺える。誰もが利己心、歴史や民族のアイデンティティを形成したコミュニティを優先するという壁を持っていて、自分たちが理不尽に弾圧されるなら戦う以外に選択はなくなる。そうした他人や環境に強制された現状にあっても、一人の個人がどのように物事を捉えるかはその人の自由にある。そうした者にとっての地獄は地獄であって「別」のものでもある。エレンが進み続けた理由はその目的、真の動機にあった。そのために自分が死んでも後悔がないなら、そのように信じて進み続けたこと自体にエレンの真の自由を見ることもできる。
進撃の巨人
地鳴らしの動機が、仮に最初から自分たちの保身のためだけに行われたものであったのなら、それは悪で間違っていると非難することは妥当になる。しかしそういう動機を持っていたのはむしろマーレ側であり、エレンたちはギリギリまで地鳴らし以外の選択を模索し続けた。それはエレンたちにとって自分たちだけでなく他の人、それが敵国にいる人間であっても大事だったからであり、それを世界が追い込んだために、強制的に自分たちか外の人たちかという二者択一を迫られたために地鳴らしを発動せざるを得なくなった。エレンの苦悩はそれを一人で抱えようとしたところにもあると思う。エレンの怒りやルサンチマンを伴う自由も、それがエレンにとって根源的なものであっても、本来なら歪な形で表に噴出することがなかったものだった。そのため、この地鳴らしという虐殺行為に関しては、エレン一人が異常な状態にあったために行われたのではなく、もともと進撃の世界の人たちの病的に異常な状態がエレンとして反映された結果によるものだった。それがマーレの司令官が言った、地鳴らし時のエレンの姿は「我々が至らぬ問題のすべてを「悪魔の島」へ吐き捨ててきた」その憎悪を反映した姿の意味だった。
こうした人々の状態は、最終話でも変わらなかった。エレンの死後、島内の人々もエレンに感化されたイェーガー派と同じ思想を持ち、熱狂状態になっていた。しかしそれは自ら考えることを放棄した表層性のものにすぎない。そのため、熱狂する大衆の傍らで彼らと付和雷同しないヒッチや新聞記者のロイとピュレ、ブラウス一家、リーブス商会のフレーゲルなどが彼らと対置する形で描かれていたように思う。おそらく彼らのような立ち位置がなければ、再び第二、第三の進撃の巨人が憎悪の反映として現れかねない。エレンの願い通りミカサが天寿を全うするまで長生きした後も、建造物が近代化した時代に戦争によって町が破壊され、その後に文明が崩壊し退行しているかのような描写がされている。つまり人類は自分たちの心の中の巨人に敗北したことになる。戦争や暴力などが漫画のテーマとして描かれる場合、それを強調して表現することで現実での抑止になることが狙いとされることがあるように、作中の戦争の描写も、現実では起こって欲しくないために強調して描かれたという意図もあったのではないだろうか。
おまけ
エレンについてはアニメ五期のOPとEDという映像と音楽の力によって感情の側から把握できたことがあった。またエレンについてのYouTubeの解説も参考になった。
コメント