【個性化への衝動】『自我と無意識』(C.G.ユング) 要約と感想

要約

『ヨブへの答え』を読んだ後に理解を深めるためにユング心理学の入門書とされている本書を再読した。読み返して思ったのは、本書は訳者の松代洋一があとがきで言うように一般人に対してユング心理学の基礎概念を丁寧に説明したほぼ唯一の書であるということ。だがそれ以上に個性化という難題についても丁寧に説明しようと取り組んでいることが本書の要所であるように思った。

序言


無意識の変容過程には固有な特徴と経過があり、それが普遍的な心的事象であることを講演で述べた後に十年以上経験を積んでから記述したのが本書。今回は主に自我意識の無意識過程に対する関係、とりわけ無意識からの影響に対する意識人格の反応と見なし得る一連の現象を研究した。

第一部 意識に対する無意識の作用

第一章 個人的無意識と集合的無意識


夢や空想に含まれているイメージや想念は意識とは無関係に自然発生する。そのため無意識は自律的な心的活動であり、夢から間接的に心的過程を推察できる。個人的無意識とは無意識の中の一つの層であり、そこには個人の生活の獲得物や意識化し得る心理的要因という個人的性質を持つ素材が含まれる。人格の構成要素であるそれが欠落すると劣等性が生まれ、道徳的なルサンチマンを引き起こす。これは心の平衡のために欠損が償われる事を要求する自己との葛藤に由来している。夢や空想の太古的な神のイメージは個人的獲得物ではなく、現代人の無意識の中で成長し作用を展開した一つの元型による。この想定からこれを集合的無意識と呼んでいる。

※元型 夢や空想に含まれるイメージを生み出す、それ自体は認識できない形而上的基礎

第二章 無意識の同化に伴うさまざまな現象


外的な社会的役割あるいは内的なヴィジョンの中に埋没すると自負心過剰や自信喪失などの自我肥大が起きる。それは先天的な集合的心を意識に自らの資産のように付け加えて集合的要素の強化が生じているため。人格の分化より比較的容易な集合的機能で間に合わせようとする誘惑は大きい。人格の発展には集合的心からの分離が必要。共同体が巨大であるほど固有の集合的要因の集積が保守的偏見に支えられ個人が卑小化される。だが個人こそ社会の倫理的精神的な進歩の唯一の源泉。魂を自由な状態に保つには神的な特質であるユーモアが必要。私たちが個人的な心理だと思っている多くのものが集合的であるため、区別するには個性に目を向ける事が必要であり、そのためには根本的な省察が必要。

第三章 集合的心の部分としてのペルソナ


ペルソナとは集合的な心の一断片。肩書を得て職務を演じるなど、人が何者として現れるかについての個人と社会との間に結ばれた一種の妥協。意識は恣意的に適合しないものを抑圧するため、人間的なものが犠牲にされる。集団にうまく適ったペルソナ構築は外部世界を全面的に首肯する。だがそれは自我をペルソナとの同一化に押し込もうとする自己犠牲に他ならない。理想的な女性のペルソナを演じていたある神経症の女性患者は、転移の本質を意識することで太古的神のイメージと個性の自覚が同時に起こった。転移の解消は無意識的過程が指導権を得て意識が導かれて成し遂げられた。平衡喪失は合目的的なもの。それは、機能を失い意識から去ったエネルギーによって無意識が活動し新たな平衡の確立を目指すため。

第四章 集合的心から個性を解放する試み


日常において仕事で挫折し諦念を学び、怯えた子どもの精神状態で自分の能力以下の仕事や地位に甘んじるようになると自らのペルソナの退行的復元になり、以前よりも狭小、合理主義的になる。簡素な生活を誰も妨げはしない。だが彼自身の心がこうした欺瞞をあざ笑う。その人の現実であり本性であるものだけが癒す力を持っている。また、誇大妄想の場合が多い予言者や多数の人の理想的処世術である予言者の弟子は集合的心との同一化による自我肥大であり、個性の自律性や精神的自由が失われる。神話の英雄は怪物という集合的心と同一化するだけでなく、自らの意志で集合的心を征服するからこそ英雄。どちらの場合も前者は社会的承認を得るため、後者はある原像のもつ自己暗示的な意義に殉じるために自己を放棄しており、どちらも集合的なものが優位を得ている。

第二部 個性化

第一章 無意識の機能


個性化とは、人間の集合的使命をより完全に満たす事、あるいは無意識的な自己を実現する道を歩む事。個人が本来そうであるよう定められた個性的存在へと至る過程が個性化の意味。個性化の目的は、自己をペルソナの偽りの被いや無意識の様々なイメージの暗示的な力から解放すること。意識と無意識は互いに補い合い一つの全体、自己を形づくる。自己認識するほどに個人的無意識の層は消える。この段階で生じる混乱は利己的でなく他者にも関わる集合的諸問題のため、集合的補償を要する。意識が切実な個人的欲求から普遍的問題に深く関わる場合は、無意識による補償も合法的となる。補償の性質からその意識的努力が適切かを判別できる。我々を駆り立てる動機は本質的には自己実現への衝動であり、情熱の問題に彼の本性の深層がそれに応えても不思議はない。

第二章 アニマとアニムス


両親のイメージが両親と一致するのは一部分であり、後は主体自身に由来する。両親コンプレックスは両親の死後も無意識的に投影されたそのイメージ自体で存在しているかのように作用し続ける。男性にとって女性も両親同様に自律的な性質のイマーゴを生み出す影響力ある要因。男性が内に持つ女性的特徴や傾向を抑圧すると無意識の中にこれらの要求が鬱積され、女性イマーゴがその貯蔵庫になる。強い男性というペルソナの誘惑に無抵抗なほど男性の持つ女性的弱さというアニマによって補償され、それは考慮されねば外部に投影される。個性化のためにはペルソナとアニマを自分と区別し、両者を意識化することが必要。つまり役職や無意識の要求と自身の欲求を区別する事。アニマを自分から乖離するには内的実在の存在を無条件に認め、アニマを明るみに出し自由に表現させるだけでいい。アニマを自分の思考とは別の客観的な出来事と自覚すれば同一視せずにすむ。アニムスとは女性の持つ男性的弱さであり、男女の意識の違いからアニマは気分を、アニムスは意見を作り出す。女性もアニムス意見を自分から距離を置くことが必要。現代人は無意識に対する防御ができないため異性に対して歪な形で転移する。アニマ、アニムスなどの自律的コンプレックスを意識化して意識と無意識の一機能にすることが必要。


※コンプレックス 意識に未だ完全に統合されていない部分的に自律的な存在のこと


※イマーゴ コンプレックス化している対象へのイメージ


※アニマ 男性の持つ女性イマーゴ。アニマ像の最初の担い手は母親であり、後に男性の感情を肯否に刺激するような女性に肩代わりされる。ある慈善家の男性は良すぎるペルソナを築いたためにアニマを母親イマーゴの形で妻に転移して暴君的で神経質な男となった。それは幼児的で従属的存在であることの裏返しに過ぎない。そのようなコンプレックスとの同一化による自己犠牲は内面的には私生活に補償され、いずれ重度の神経症で支払うことになる。アニマに憑依された男性はヒステリー女の状態になる。


※アニムス 女性の持つ男性イマーゴ。アニムス意見の権威や理性的な判決は主に幼児期から無意識的に拾い集めた言葉や意見が集積し、平均的な真理や正しさや分別の基準になったもの。これらの意見は常識の形の他、偏狭な先入観、教訓めかした原理の形で現れたりもする。アニムスは未知の言葉に弱い新語好きのため、それを用いて思索から逃げ出してしまう。またその意見の根拠に対する批判を受け入れないことが多い。アニムスに憑依された女性は、女性的ペルソナを失う危険もある。アニムスは女性の代々堆積した男性に対する経験の堆積であり、同時に生産的で創造的な存在のため、アニムスを一機能にすれば生産的な言葉をもたらす。

第三章 自我とさまざまな無意識像とを区別する技術


自律的コンプレックスの変容こそ無意識との対決の目的。空想をまず十分に体験し、その後それに対し意識をもって解消する事。コンプレックスと意識が同一化している時、無意識は意識からリビドーを奪いとり心的水準を低下させる。リビドーを無意識から解放するにはそれと同一である空想イメージを浮かび上がらせ、それを意識内容に変ずる機会を与える必要がある。アニマは意識の抑圧的態度のために多くは感情的に現れるしかなかった。そのため激情を利用しアニマに発言の機会を与え自らを呈示させた後にそれを良心的に批判し、主観的感情が満足いく結末を見出すまでその談話と応答を続けるのがよい。気分の誘惑にも負けず自分と距離を置いた客体にすること。空想への積極的関与でそこに現れているリビドーを獲得し無意識に対する影響力を強化出来、また空想の意識化で意識のリビドーが奪われるのを防御出来る。無数の無意識内容が意識化され続ければ人格の変化が生じる。それはそれまで意識化されてなかった劣等機能が意識に同化されて意識の態度も影響を被るためであり、この本質的変化が超越機能。空想が了解されねばコンプレックスの否定的活動や人格化が生じ、自らと不一致な状態や行動をとらされ、それに責任を取ることが出来ない。こうした屈辱的で不自由で非倫理的状態を脱するにはこれが自分だとまず感じ、次にそのように行動できるようになる事が必要。これも己を無意識内容から区別できれば可能になる。

第四章 マナ人格


アニマと対決した意識的自我がマナ人格となる。この人格は集合的無意識の優性形質であり、英雄や魔術師など力ある男性の元型。女性の場合は太母になる。だが両者は自我肥大。ただより大きな力を持った同性の形姿との混交が生じただけ。従って自我はアニマを未克服でマナも未獲得。自我のアニマに対する勝利の主張は無意識に対する越権であり、それは無意識の越権を招くため主張を止めれば憑依も止む。この時マナを持っているのは人格の中心。超個人的な無意識の空想の展開は通過儀礼の過程と似ており、現代人の無意識内容の中に精神的意義を持った通過儀礼の象徴表現が明瞭に現れている。人に出来るのは原像からの逃避ではなくそれに対する態度を変え、人間性を犠牲にして役割を演じるのを防ぐ程度。元型に憑かれたら単に集合的な存在となる。自我をマナ人格元型から区別するとその無意識内容を自覚する。それは両親からの真の解放を、また自分独自の個性に目覚める事を意味する。自己は内界と外界の間の葛藤を補償するものでもある。一歩一歩成就し、多くの艱難を経て初めて経験できるようになるもののため自己は生の目標でもある。自我は自己に依存しつつそこを周回していると感じられたときに個性化される。自我は上位に位置する自己の客体であると感じるようになる。


感想

個性化という衝動


本書の要点、つまり個性化についての要旨は訳者の渡辺学がまえがきで簡潔に端的に述べている。
「個性化過程の要点はむしろ、基本的に個人が自らの個性を集合的なものから分離独立させていくことにある。それはもちろん、意識と無意識とが全体者としての心において統合されていく過程ではあるが、自我の視点からみれば、自我ならざるものを自我から切り離していき、自我が内容のない一個の視点にまで純化されていく否定の道でもある。そのように考えなければ、つねに自我肥大の危険を招かざるを得ないことが指摘できよう」


ユングは我々を駆り立てるのは本質的には自己実現の衝動と述べている。それはショーペンハウアー的な無目的的な盲目の意志が我々を駆り立てるという見解とは異なり、目的志向的な合目的的なものがそうさせるという考えだった。ここで言う自己の実現とは、認識不可能な形而上的概念としての無意識的な自己という、全精神生活の端緒を発し、あらゆる最高善かつ究極目標もこの自己を目指しているということであり、それが個性化ということだった。無意識自体は確かに単なる自然の産物のため無意図であるにしても、それは潜在的志向性を内在しており、ここに意識が関与することで目的志向が生ずるということだった。そうして無数の無意識内容が意識化され続ければ人格の変化が生じ、そうした変化を超越機能とユングは呼んだ。


超越機能と聞くと何だか凄そうに聞こえるものの、それ自体は単に心の自動調節作用の結果なのだろう。ユングは第二部第四章でこのように述べている。無意識は非人間的で意識だけが人格的であり、無意識は胃袋のように自動的に反応し、無意識に対し意識が思い上がった振る舞いをするのは心の不養生であるため比喩的な意味で罰を与えると。つまりそれまで過剰な負担を受けていた胃袋の負担が除去されて正常化し、そうした生活を長く続けると身体も丈夫に変容するようになるのと同じ意味合いで、心の状態も正常になり、日々コンプレックスと自我との区別をし続けることで本来のその人に合った方向に人格が発展し変容するようになる、という事ではないかと思った。


個性化の話でもう一つ見逃せない箇所があった。無意識の補償が合法か非合法かは、その補償の性質によって決まるという箇所だ。


宗教的問題を抱えていたある神学生が黒と白の魔術師の夢を見た。この黒と白は道教的な象徴の仕方で悪と善の対立を強調しており、それがキリスト教的な意識態度に対する集合的補償という形で非合理的な答えを提供しているとユングは考えていた。


宗教や道徳、哲学の問題は普遍的性格のため、当人がそれを切実なものとして捉えている場合、それは情熱の問題であるため彼の本性の深層がそれに応えても不思議はない。そのように切実な個人的欲求に発したものの場合のみ、無意識の補償は合法だとユングは考えた。対してそれが単に知的好奇心や不愉快な現実からの逃避の試みに過ぎない場合は、その補償は非合法とした。しかし後者の場合も無意識は個人的な補償でその人を日常世界へ連れ戻す目的を持っている、とのことだった。

自我肥大とSNS


本書の第一部二章で言及された自負心過剰による自我肥大の状態が現代で言う自己愛性パーソナリティ障がいの状態と類似あるいはそのまま当てはまるように、今から百年近く前の本でありながら誰もが内在する現代人の人格障害的なものを洞察する助けになることが多く描かれている。特にアニマやアニムスは実生活やSNSの人間関係に今でもよく現れていることが容易に見て取れる。


ある慈善家の男性に会ったユングはこの人物があまりに完璧だったため劣等感を抱き自分を改善すべきかどうかまで悩んだものの、その男性の妻がユングに家庭内におけるこの男性についての悩みを訴えたためにそうした悩みは二度と起こらなくなったという話を本書で述べている。慈善家という職にあまりに適合しすぎたペルソナを構築したために、その男性は家庭内においては妻子に恐れられるような暴君的で神経質な男になっており、それは幼稚で感傷的で依存心が強いためであったという。仕事においてはその職務のペルソナを被る必要は誰にでもあるとしても、理想的なペルソナを無批判に無抵抗に受け入れることは、そのぶんアニマによる否定的活動という障害が反比例的に大きくなる。この男性の場合は極端な例だとしても、この男性を小さくしたような症状を呈している男性は組織社会で上司や部下、また顧客に挟まれて良すぎるペルソナを作らざるを得なくなっている人には必然的に多くなっているのではないだろうか。そうした人がストレスのはけ口にネットで誹謗中傷することを想定するのはそれほど不自然な事ではないだろう。


SNSでは特に男女問題について述べているところにアニマとアニムスが現れやすい。特にツイフェミと呼ばれている人の言動はアニムスの否定的な活動、即ち偏狭な先入観、教訓めかした原理の形で現れ、その意見の根拠に対する批判を受け入れず枝葉末節の事柄を本題に祭り上げようとして議論を不毛にするような傾向がそのまま見受けられる。『アイオーン』で述べられているようにアニマはアニムスを、又はアニムスはアニマを呼び起こしやすい。そのためツイフェミに対しては男性が反論するよりもフェミニズムをその歴史から深く知悉している女性が反論する方がよほど効果的であるように思う。男女問題に限らず人種問題での行き過ぎたポリコレにしても彼らが擁護する黒人たちの意見こそもっと広く聞くことが必要だ。

疑問 アニマと自我を区別する方法は実践向きではないのでは?



ユングは自律的コンプレックスを一つの機能とする技術の方法を全ての患者には薦めてはいない。あくまでやむを得ずそれが必要になった患者にだけその技術を施している。だが同時に個性化は不可欠であり、自身の文化の中で進歩したい者はアニマの作用を客体化し、その作用の根底に潜む内容を知るという作業が欠かせないとも述べている。社会の倫理性は社会の大きさに反比例し、個人は社会に担われた分だけ個人的責任を免除されるため一人で行動している時より無意識的でより劣るということだった。無意識に埋没した個体的なものは劣悪なものに姿を変え、道徳的没落という形で間接的に現れる。内なる悪魔を否定すれば人格から影が奪われ、その状態はお行儀の良い幼児状態と変わらない。それが現代人の常態だからこそ倫理的精神的な進歩の唯一の源泉は個性にこそあるとユングは考えていた。


区別の方法自体の概略は本書の第二部第二、第三章で記述されている。アニマと乖離するには、アニマを明るみに出し自由に表現させるだけでよく、アニマを自分の思考とは別の客観的な出来事と自覚すれば同一視せずにすむとしている。その際にアニマに対し人間のように問うことでアニマは一個の人格として認識され対峙できるため、アニマを人格として受け取れるようになるほどよいとしている。アニマは意識と乖離していない場合、意識の抑圧的態度のために多くは感情的に現れるしかなかったため、激情を利用しアニマに発言の機会を与え、その枠組みの中で自身に問いかける技術を磨き、良心的に批判するのは情動が自らを呈示するまでしてはならず、主観的感情が満足いく結末を見出すまでそうした談話と応答を続けるのがよいとした。そうしてこそ自らと不一致な状態や行動をとらされ、それに責任を取れない屈辱的で不自由な状態からの離脱も可能となるのだろう。


だが、ユングが全ての患者にこの方法を勧めなかったように、この方法に興味がある人でも専門家の支援なしに行うことは難しいように思う。オレには現代日本においてこの方法は理屈としては理解出来そうでも実践向きとは思えなかった。しかしこうした方法に似ていて、かつよりわかりやすく実践に向いている方法だとオレが思っているのが臨床教育学者の岡本茂樹の提唱したロールレタリングだ。それは長い間抑圧していた不満や怒りなどの本音を紙にぶちまけて吐き出すという、それだけの方法ではあるものの、それゆえに誰にでも実践しやすく、かつ抑圧が解消され個人的無意識の層が薄まることで自己洞察が深まり他者をも理解、受容し得るようになる効果があるため、アニマやアニムスという自分の無意識内容を自分と区別するという自己理解にも通じるものがあるのではないだろうか。どちらの方法も結果的にはクライエントの人格の変容が起こっていることも共通している。


とはいえ、それでもユングの思想ほど深層心理学の見地から個性化という人間の普遍的な問題を深く洞察したものはない。個人の意味と価値が見えにくくなった今の時代においてそれを奪還してより自分らしく個性的に充実した生を送る上で本書は今後も人々の大きな助けになることは疑えない。

参考文献 『自我と無意識』C.G ユング 訳 松代洋一 渡辺学 第三文明社 1995年2月

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