原作が完結してしばらく経った今、一番心に残っていたエピソードは義勇と錆兎の話だった。この話がアニメ化するのは刀鍛冶の里編の次になると思うので、たぶん二年以上は先になる。それなら気になった今、その話に当時心を打たれた意味を振り返って考えてみたいと思った。
結論
義勇の話に心を打たれた理由は、義勇の想いに人間の立派さが表れていたため。また、そこから弱さを認め、自分を大事にすることが描かれていたため。
義勇と錆兎の話
最終選別でほとんどの鬼を倒した錆兎だけが命を落とし、一体の鬼も倒せず錆兎に助けられただけの自分は柱になって良い人間ではない、本当なら鬼殺隊に自分の居場所はないと義勇は話した。
“きっと義勇さんは自分が死ねば良かったと思っているんだ”
義勇の話を聞いた炭治郎はそう思っている。それは炭治郎自身も、家族を守れず自分が生き残っていることへの申し訳なさや、炭治郎たちを助けて命を落とした杏寿郎に対する申し訳なさをこれまで抱いてきたためだった。
義勇自身は認めなくても、一般隊士の炭治郎から見たら柱になるまでどれほどの鍛錬が必要であったかが想像できるため、義勇に対して何も言うことは出来ないと炭治郎は思っている。しかし杏寿郎から信じると言われて、その想いを受け継ごうとしている炭治郎は一言だけ聞かずにはいられなかった。「錆兎から託されたものを繋いでいかないんですか?」
かつて義勇の姉の蔦子が鬼から義勇を守って死んだことに対して、自分が死ねば良かったと言った義勇を錆兎は殴った。それは蔦子への冒涜になるということだった。蔦子が守った大切な命と託された未来を義勇は繋いでいくことを錆兎は伝えた。炭治郎の一言でそのことを思いだした義勇は蔦子と錆兎に謝罪し、稽古に参加するようになった。
錆兎が義勇に伝えたことをより詳しく描いた作品が、鬼滅の刃の連載前にジャンプで掲載された『肋骨さん』として表れているように思う。当時初めて義勇の話を読んでいた時にオレが思い出していたのも『肋骨さん』で、同じテーマで似ているなあと思っていた。
肋骨さん
肋骨が邪気憑きと戦う理由は、かつて浄化師の善而が肋骨を助けて命を落としたため、善而の代わりに浄化師として多くの邪気憑きを倒し、多くの人々を守らなければ自分など存在していいはずがない、生きている意味すらないと考えていたためだった。
しかし肋骨が邪気憑きから助けた女の子がその考えはよくないと伝える。かつて肋骨と同じ考えを持っていた女の子は施設のマミコにこう言われた。他人にとってはどうでもよく、誰も大事にしないあんたを、せめて自分だけは大事にしてあげなさいと。
善而に対する申し訳なさから、自分の命をこれまで大事に出来なかった、それはとてもよくないことだったのではないかと肋骨は考える。そしていつも一緒にいてくれる河童にそのことへの謝罪と感謝を述べる。
『肋骨さん』の話はこのように、自分が死ねば良かったと思う肋骨が自分のことを大事にしていこうと前を向いていく話になっている。これは義勇の話も同じではないだろうか。肋骨が抱える申し訳なさという想いを義勇や炭治郎も抱えている。こうしてみると、義勇が蔦子と錆兎へした謝罪には、肋骨が河童へ伝えたように感謝も同時に含んでいると推測できる。
人間の立派さ
こういう話に心を打たれた理由はなんだろうか。そのことを探るうえで参考になったのが吉野源三郎のベストセラー『君たちはどう生きるか』だった。1937年に出版されて今でも読まれているこの小説は、2017年に漫画化された。2023年にスタジオジブリで公開される予定の映画にも関わっているという。
この物語の中で主人公のコペル君は、何があっても友達を守るという約束を勇気がないために一人だけ破ってしまい、そのことに対する申し訳なさでとても苦しむことになるという話があった。
そうしたコペル君に、コペル君の母親が、学生の頃に石段でおばあさんの荷物を持って助けようとするタイミングを失った時の経験からこのように話している。
“ああすればよかった、こうすればよかったって、あとから悔やむことがたくさんあるけれど、でも、「あのときああして、ほんとによかった」と思うことだって、ないわけじゃあありません。それは損得から考えてそういうんじゃあないんですよ。自分の心の中の温かい気持ちやきれいな気持ちを、そのまま行いにあらわして、あとから、ああよかったと思ったことが、それでも少しはあるってことなの”
“あの石段の思い出がなかったら、お母さんは、自分の心の中のよいものやきれいなものを、今ほども生かして来ることが出来なかったでしょう。人間の一生のうちに出会う一つ一つの出来事が、みんな一回限りのもので、二度と繰りかえすことはないのだということも”
『君たちはどう生きるか』吉野源三郎 岩波書店 1982年11月 246-247ページ
大学を出て間もない法学士の叔父さんは、パスカルの言葉を引いてコペル君にこのように伝えている。
“一筋に希望をつないでいたことが無残に打ち砕かれれば、僕たちの心は眼に見えない血を流して傷つく。やさしい愛情を受けることなしに暮らしていれば、僕たちの心は、やがて耐えがたい渇きを覚えて来る。
しかし、そういう苦しみの中でも、一番深く僕たちの心に突き入り、僕たちの眼から一番つらい涙をしぼり出すものは、──自分が取りかえしのつかない過ちを犯してしまったという意識だ。自分の行動を振りかえって見て、損得からではなく、道義の心から、「しまった」と考えるほどつらいことは、恐らくほかにないだろうと思う”“自分の過ちを認めることはつらい。しかし過ちをつらく感じるということの中に、人間の立派さもある。「王位を失った国王でなかったら、誰が、王位にいないことを悲しむものがあろう。」正しい道義に従って行動する能力を備えたものでなければ、自分の過ちを思って、つらい涙を流しはしない”
『君たちはどう生きるか』吉野源三郎 岩波書店 1982年11月 254-256ページ
コペル君は「自分が取りかえしのつかない過ちを犯してしまったという意識」から申し訳なさという「恐らくほかにないだろう」つらさを抱えている。そして、そうしたことをつらく感じること自体に人間の立派さがある、ということだった。
義勇と肋骨の話に心を打たれたのも同じ理由かもしれない。義勇も肋骨も同様の意識から申し訳なさという想いを持ち、そこから「自分が死ねば良かった」と思うほどつらく感じていた。しかし、それ自体に人間の立派さが表れている。「自分が死ねば良かった」という一見後ろ向きな言葉は、そのようにその人の立派さが表れた言葉でもあった。
そしてコペル君の母親の言葉を借りれば、後悔した出来事にもよかったと思うようなことも同時にあるのだろう。義勇と肋骨が敵を倒すために努力できたのも、敵に対する怒りとともにそうした後悔があったからこそ奮起したのかもしれない。また、敵を多く倒すことで、実際に助けられた人々が多くいたのも事実だろう。過去を後悔してなかったことすると、そうした助けられた人々の存在もなかったことになる。義勇がいなければ炭治郎はなく、炭治郎がいなければ、また多くの命も失われていただろう。
弱さという強さ
このような人間の立派さという美徳は、しかし同時に欠点にもなりかねない。自分が死ねば良かったという想いは立派ではあっても、やはり後ろ向きな言葉でもあることは確かだ。
猗窩座が人間だった頃、貧しいために薬を盗んで病気の父親にあげようとしたら捕まり、父親がそのことをつらく思って自殺した話があった。遺言には“迷惑をかけて申し訳なかった”とあった。
しかし猗窩座は迷惑をかけられる事は何でもなく、それよりも生きていて欲しかったと考えていた。このように人に迷惑をかけて申し訳ないという優しい立派な想いが、身近な人を不幸にすることもある。猗窩座はこうも思っていた。“病で苦しむ人間は何故いつも謝るのか 手間をかけて申し訳ない 咳の音が煩くて申し訳ない 満足に働けず申し訳ない”“一番苦しいのは本人のはずなのに”
申し訳なさというつらさは、言い換えれば恩恵を受けたのにそれを返せないという、常に借金を背負っている状態と言えるかもしれない。受け取ったものは返さなければならない、しかし返せない状態だけがつづくという考えだ。
受け取ったものは返すという考え自体は、杏寿郎のように天から授かった能力を人々のために使うというように有効に働くこともある。しかし何らかの理由で返せない状態が続くと、逆向きに働きかねない。人間の立派さという大きな長所には、こうした大きな欠点、弱さもある。
受け取ったものは返すという考えから鬼殺隊の隊士の多くが鬼に立ち向かうこともある。今まで助けてもらったのだから、より鬼を倒す可能性のある者たちを守るという考えで散っていった者も少なくなかった。柱たちも炭治郎もそれを悲しみながら、自分もそうするべきだという考えを持っている。そこには弱い自分より強い人間が生き残るべきという考えも伺える。鬼を倒すという目的のためには当然の考えだ。
しかし、それは必ずしも価値のない弱い人間は価値のある強い人間の犠牲になるべきという考えにはならない。もしもそうなら杏寿郎は自身より弱い炭治郎たちを守ったりしなかっただろうし、錆兎もまた義勇たちを守ったりしなかっただろう。そこには別の価値基準がある。杏寿郎や錆兎はそこから受け取ったものを返した。
弱さを持つとは、それが他の人より弱いということや、弱い心を持っていることにはならない。それを勘違いすると、弱いために自分を低く評価して価値がないと見てしまうことになりかねない。「俺はお前たちとは違う」と他の柱たちに言った義勇にもそうした面があった。弱さを弱さのまま認めること、それを『肋骨さん』では自分のことを自分だけは大事にしてあげなさいと言ったのかもしれない。『鬼滅の刃』で蔦子や錆兎が義勇に対して、また杏寿郎が炭治郎たちに対して想っていたことにもそれはあっただろうと思う。
遊郭編でも炭治郎は堕姫と妓夫太郎にそれと同じことをはっきりと伝えている。「君たちのした事は誰も許してくれない 殺してきたたくさんの人に恨まれ憎まれて罵倒される 味方してくれる人なんていない だからせめて二人だけはお互いを罵りあったらだめだ」
鬼と人間との違いというのも、そうした弱さを認めることができるかどうかにあるのかもしれない。鬼となったものたちの多くは、自分を強者と見て弱いものを認めなかった。そして鬼たちは弱かった人間の頃の記憶を失っているものが多かった。鬼でなくても弱かった過去のことを忘れることはある。炭治郎に聞かれるまで、義勇は錆兎に言われたことを忘れていた。
敵を倒すためなどの実際の強さは必要だ。しかし、そうした価値基準だけでは「自分が取りかえしのつかない過ちを犯してしまったという意識」のつらさ、苦しみから、自分を大事にしない方向に行きかねない。肋骨が「自分など存在していいはずがない、生きている意味すらない」と言ったように、そうした思いは義勇や炭治郎だけでなく、他の鬼殺隊の隊士や、物語の鍵となる人物、縁壱にも見られる。そうした自分に価値はないと考えている状態から、別の評価基準を作り、後ろ向きな彼らが前を向けるように描かれているのがこの漫画だ。そんな風に思った。
まとめ
そのため、義勇の話に心を打たれた理由は、義勇の想いに人間の立派さが表れているためであり、またそこから弱さを認め、自分を大事にすることが描かれていたためだと思った。
オレ、鬼滅はギャグやバトルとして読んでたんだけども!
それがあってますね。まあこういう読み方もあるということで…
参考文献
『君たちはどう生きるか』吉野源三郎
「感謝に伴うすまなさ感情の検討」池田幸恭
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