首相襲撃事件と民主主義について不審に思うこと
「旧統一協会に人々が関心を持ち法整備を進める事は事件の模倣犯を生む」
昨年起こった元首相殺害事件の後にこうした意見が出た。周知の通り事件の翌日の朝刊ではどのメディアも暴力は民主主義に対する挑戦ということを述べていて、それが主流の考えでもあった。だが、事件を起こした山上容疑者の動機や背景が明らかになるにつれて旧統一協会に対する法整備を求める人々も大勢になった。
先の意見はこうした風潮に対して述べられた。これは一つの正論であり、オレ自身は当時も今も旧統一協会に対して法整備は進めるべきであったし、進めてよかったと思っている。しかし同時にその選択によって生じる悪があるという矛盾による苦しみも引き受ける事になる。この意見はそうした事実を突きつけたものだった。しかしこれは判断材料の一つとして尊重されるべき意見だろう。
だが、当時そうした意見を述べたものはその反対意見を持っていた人たちから抑圧されがちだった。著名人では爆笑問題の太田光が法整備を進めることは模倣犯を生むということを述べたために、それを見た一部の人々は「太田は旧統一協会とつながりのある自民党の関係者として利益を得ているのではないか」「太田は旧統一協会の擁護者ではないか」などの、まるで話が通じない拒否反応の塊のような意見をTwitterなどで述べていた。
今では当時とは逆に容疑者に対し人々が関心を持ちすぎると模倣犯を生むという意見が強い流れを持つようになった。理由は簡単であり、誰もが知るように和歌山で岸田首相が襲撃される事件があったからだ。木村容疑者の動機や背景を報道すれば模倣犯が生ずる可能性が高いため、報道関係者は自らそれらを規制する必要があるという意見がTwitterなどの場においては一つの正論として勢いを持った。これは規制の幅によるものの、極端に報道の自由に干渉するものでなければ一つの有効な手段ではあるだろう。実際、木村容疑者が過去に起こした訴訟での証言の記録から、山上容疑者が起こした事件の影響や模倣性が疑われている。
このように実際の事件によって大衆の正しさが左右される理由は、ミルが言うように社会的な正しさは功利に従属するためだろう。それはそういうものだとしても、それとは別に不審に思っていることが二つあった。一つは、事件によって以前持っていた正しいとする意見を容易に捨ててしまうことが人々にあるのではないかということ。もう一つは、誰もが錦の御旗にする民主主義とは何だろうか、そんなに声高に主張しなければならないものなのか、ということ。
前者については、誰が見ても明確に黒白が明確化した場合を除けば、絶対に正しい意見も絶対に間違っている意見もないのだから自分で支持した正しさは簡単に捨ててはいけないと思う。その時その時の社会の正しさ、大衆の主流の勢いによって自分の支持を変えれば、何も責任を持たない存在になる。旧統一協会に対して法整備を進めるべきという考えを支持しておきながら、模倣犯が出て立場が悪くなると意見を変えるようでは、法整備で助かった人たちは助かってはいけなかったのかと思ってしまいかねないだろう。そんな無責任な事はしてはいけない。偉そうにこんなこと言うオレも最近になってやっとそう確信できた。小さい個人に出来る事は自分の選択で生じる矛盾の苦しみを直視し、そこから逃げない覚悟が必要なのだと。
後者についても同様で、暴力で政治を変えるのは反民主主義という意見もあれば、人々の安全を護らない政治が変わらないのであれば暴力もやむを得ないとする意見もある。どちらも正論だとしても、その意見を支持した人はそのことに責任を持たなければならない。というのは、そのことで苦しまなくてはならないということだ。
宇野重規の『民主主義とは何か』によれば、民主主義は暴力によって発展してきた事実があり、古代ギリシアのアテナイ市民は戦争に出て戦うことで自分たちの権利を拡大していった。また、世界大戦参戦時にアメリカが民主主義擁護をした結果、民主主義は世界的大義となったらしい。当時の世界恐慌に既成政治は対応できず、格差と不平等を是正したのは総力戦体制であり、戦争動員のために世界的に不平等は縮小していった。暴力は民主主義に反するという意見の人にはこうした事実は苦しい矛盾になる。それを時代や背景が違うと言って逃れようとするのは自分からの逃げに他ならない。凶悪な事件を起こした人物に死刑や無期懲役という暴力を求めることは正当とされる。警察による治安の維持は正当とされる。緊急回避は正当化される。こうした暴力は反民主主義とは基本的にみなされることはない。それは国の秩序や国民の安全を護ることに寄与しているためだろう。では、安全を毀損された人たちが自分たちを護らない政府に暴力を起こすことの何が問題になるのか。多人数を護ることを優先するのは民主主義とする。しかし少数を護ることもまた民主主義としている。こうした矛盾を蔵する民主主義に対してどのような態度を取るか。オレの結論は先に書いた通りだ。相対主義を脱してより良い選択を人々と模索するにはそこにしかないのではないだろうか。
次の民主主義とは何か
現代において民主主義の大きな危機の一つされているポピュリズム。戦後のオイルショック後に先進国の経済成長が鈍化し低成長と経済赤字が続く中、80年前後に規制が撤廃され自由競争が促進される新自由主義が始まった。グローバル化の影響により国内産業は空洞化し、代替されやすい労働者層の貧困化が増していく。彼らにとっては冷戦後の政策に差異がなくなった右派も左派も魅力的ではなくなり、どちらも既得権益や外国資本、グローバル化を擁護するエリートと見なして批判の対象になる。彼らはナショナリズムを優先する一方で、その言動が外国人や民族的マイノリティ、また社会的弱者を排除するような過激なものになりやすい一面を持つ。彼らの意見を代弁するポピュリズム政党が西側の諸国で大きな勢力になっている。
水島次郎の『ポピュリズムとは何か』を読んで思ったのは、日本の場合はポピュリズム政党が与党になるのはかなり危いということだった。野党に留まる範囲でなら、むしろ政治を活性化させ、既成政党がこれまで怠ってきた様々な改革が実現される可能性が高くなるためメリットが多い。水島は、民主主義が確立している国であるならポピュリズム政党が政権を握っても危険に陥る可能性は低いと見た。ペルーのフジモリ政権やフィリピンのドゥテルテ政権の場合は民主主義が確立していなかったため超法規的な権力を行使する事態に至ったということだろう。これらと比べれば日本は民主主義の確立している先進国だから安心だ、ということにはならない。水島は明言しなかったものの、彼が暗に示唆しているのは、第一章の最初に引用した橋下の言葉にあるのではないか。
「日本人には民主主義が根付いていない」
これは制度や体制が国に根付いていない、ということではない。国に確立された体制に日本人の肌が合わないということだ。どうにも、西洋人の体質や気質に合った欧米の体制は、日本人の体質や気質となじまない、という厄介な問題がある。このことは社会学者の阿部謹也も『世間とは何か』で述べている。個人の尊厳が社会から切り離され、今も人々に十分に認識されていない理由は、西洋的な意味での個人が成立せず、世間という方に価値を置いているため、ということだった。
表向きには誰もが個人の権利を尊重しているようにしている。しかし実際に人々が優先しているのは世間的な価値観の方なのだろう。最近の出来事に対する大衆の反応を見てもそれが伺える。スシローで醬油を舐めたことで炎上した少年がいた。彼に対する嫌悪の情は自然であるにしても、その感情から誹謗中傷や個人情報の特定まで行うことを、後の模倣犯が現れる事を防ぐための見せしめとして正当な事だと捉える人が少なくなかった。国の法律を遵守するよりも感情的な排他的行為がそこでは優先されている。こういう例は無数にある。
民主主義において多数派が優先されるのは当然だとしても、それは個人の権利を必要以上に侵害しない範囲においてであることは民主主義が確立した国民の常識でありがなら、日本では多数派の感情による専制がまかり通っている。政府が恐れているのはこうした世間であり、世間の機嫌によって左右される政権は彼らに迎合しやすい。こうした状態の日本において、果たしてポピュリズムを上手く飼いならせることが出来るかどうか、甚だ疑わしく思った。
日本人と民主主義との関係について、作家の福田恒存が独自な視点で分析している。「民主主義の弱点」という文章において、彼は民主主義の本質は抑制にあると述べる。西洋人の場合は我が強いため、それを抑制する機能として民主主義は有効に働いた。しかし元々争いごとが苦手な日本人は我が弱く抑制的なため、民主主義の機能によってそれがさらに拍車をかける。結果、この日本独自の民主主義は日本人の負の面をさらに強調することになり、猜疑や警戒や小心、また他人の足を引っ張るなど人種的な弱点が発露しやすくなった考えていた。半世紀前の安保デモを受けて書かれた福田の日本人の民主主義ついての見解は、今もって日本の民主主義の問題の核心を突いているように思われる。
宇野によれば、現代では肯定的に見られることの多い民主主義は歴史上の大半においては否定的に見られていたという。トクヴィルも民主主義を否定的に見ながらも、民主主義への進展は不可逆とし、どのようにそれを実現するかが大事かということを考えていた。彼は民主主義の本質を政府に依らずコミュニティレベルで自治しているタウンシップの無名の人々に見出していた。それは市民一人一人による積極的な政治への関与であり、他人に依らず自分で行うという一種の個人主義を発揮することでもある。福田恒存も日本の目指すべき次の民主主義はそういう個人主義にあると考えていた。オレが読んだところ、どうも阿部謹也もそうだったのではないかと思っている。
阿部が理想としていた日本人は、世間の中にあって世間を相対化し客観的に捉えていた山上憶良や慈円、兼好、親鸞、西鶴などであり、漱石もそうだった。漱石の『私の個人主義』は今でもよく読まれている。西洋的な個人の観念が根付かなかったのなら、日本的な世間の観念を相対化することで自分を位置づけ、日本的な個人の観念を得ることで自己を本位として生きる事が可能となり、それによって日本でも個人の尊厳が認識される社会になる、ということを述べていた。福田も、民主制と矛盾、またはそれを補完する方法で民主主義の代わりとなる積極的な目的や価値を見出す必要があると述べ、国民は国家や社会に対してその責任を述べるよりも先に、自分のことは自分が責任を持つという考え方や生き方が根底に必要であり、民主制はそうした個人の強さを前提にしなければ弱点をさらけ出すだけだ、ということを述べていた。
では、具体的にそうした一種の個人主義や個人の強さを得るにはどうすればいいかと言うと、実はこうしてまとめるまで気づかなかったものの、それは先の文章にも書いたような矛盾の苦痛を受け入れる態度や覚悟、決意といったものにあるのではないだろうか。
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