最終話は「あの丘の木に向かって」というタイトルで、最終巻の表紙も子どもの頃のエレンが夕暮れ時の丘の木に触れて、当時のミカサとアルミンがそれに続き、当時そこにはいなかった他の仲間たちも子どもの姿でそれに向かって駆けていく描写だった。そういう風にした理由は何だったのだろうかという妄想。
この描写は137話「巨人」で、ジークの話に応える形でアルミンが話した内容と関連していることは明白なように思う。ジークは生物の性質である生殖力から生物の目的は増えることにあると考えて、今の惨状はその活動がもたらした恐怖のため、生きるよりも死によって自由になる方が良いと考えていた。不条理に弾圧されていた被抑圧者の立場が入れ替わればまた無差別に他者を弾圧し出すという繰り返される負の連鎖の現状の前にアルミンは返す言葉がない。そうして下を向いていた時に一枚の葉っぱを見つけて、子どもの頃の思い出を話し出す。それは夕暮れ時に三人で丘にある木に向かってかけっこをした話だった。
「その日は風がぬるくて ただ走ってるだけで気持ち良かった…… 枯葉がたくさん舞った その時… 僕はなぜか思った… 僕はここで 3人でかけっこするために 生まれてきたんじゃないかって…」
『進撃の巨人』諫山創 講談社 137話「巨人」
それは雨の日に家で読書している時や木の実を与えて森の動物が食べている時、また仲間と市場を見て歩いた時にもそう思ったと言う。その「なんでもない一瞬」に大切な何かがある気がしていると言うアルミンはジークに葉っぱを渡す。ジークが受け取ったそれは野球のボールの姿だった。ジークはクサヴァーとキャッチボールしていた頃を思い出す。何の価値もないはずのその行為に人生の喜びがあった。
ここで示されていることは、人間の幸福は人それぞれによって異なる部分があるということと、それを見出すのはどのような状況でも可能ということだと思う。ジークの話は人間の種全体の、一つの社会思想の理想に関する話だった。社会思想はどのようなものでも一律に人間を一つの型に規定しようとする。しかしそこではアルミンの葉っぱやジークのボールといった主観的な幸福は考慮されることがない。他の人にとってはそこらへんにどこにでもある何でもないものが、ある人にとってはとても大切な宝物で在り得るということ、こうしたことはテグジュペリの星の王子さまでも大きな不思議さとして描かれていたものであり、また誰もが普段は意識せずとも当たり前のようにしていることのために覚えのあることでもあった。これは生物の性質の生殖力とは別の、むしろ本質に近いものではないだろうか。ジークとアルミンの会話は、そうした生物の持つ二つの面からの一人の人間の答えのない対話のようにも思える。アルミンはここではジークに賛成も反対もせず、立場が違っても共通していることはあると示している。
最終話では繰り返される戦争により文明が滅亡したような描写がされた。しかし、作中の人物たちは壁の中にあっても憎悪の中にあっても生きる喜びが失われることはなかった。人は寿命があることが分かっていても、いつ核が降ってきて世界が崩壊するか分からなくても気にせずに生きている。そうした状況でも伸び伸びと楽しく今を生きることが出来るものだし、また生きるに値することは確かにある。これは作中で強調された世界の残酷さと同等の真実性を持つと思う。
104期生が子どもの頃の姿に戻って木に向かって駆けだす描写は、誰でも心の中に子どもとしての自分を持っていることを指すのかもしれない。それは道の中心に座標があったように心の中心にいて、大人になるにつれて捨ててきた物を持っている。それは普段は忘れていてもその人にとって大切な宝物である場合もあるかもしれない。
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