【神との対峙と救い】『ヨブへの答え』(C.G.ユング)要約と感想

要約

各章の番号は本書のままで、各章のタイトルには要約の要点を記した。また0章は1章の前に記載された章番号のない文章になる。本書の前書きにあたる好意的な読者へは序言とした。

序言(好意的な読者へ) イメージと元型の違い


情動を伴うヌミノースな元型が心的事実である聖書の神話的モチーフのイメージを生み出す。元型自体はそのイメージを認識できない形而上的基礎であるため、元型を暗示するイメージの世界を私は扱う。

0 現代人は神の矛盾とどう向き合うか


ヨブ記成立の時代から神の矛盾に対して多くの証言がされてきた。問題は、キリスト教の教育を受けた現代人が神の非道と如何に対決するかにある。この体験を合理的に解釈せず、激情に身を任し主観的反応を示すことでその盲目性を認識できる。この理由から私は不正には不正と返す。それが同じように感じている多数の人の代弁になる

1ヤーヴェの性質と性格


ヤーヴェは常に正しいと呼ばれることを欲し、人間が自分の思い通りにならないと癇癪を起す。だが彼は自分がなぜ常に正しいと賞賛されたいかが理解できない。ヤーヴェの性格は客体によってしか自分の存在感を持てない人格。主体が自己反省せず、自身への洞察を持たない時には客体へ依存する。彼は無意識であるため道徳的であることができない。その点で彼は現象。ヤーヴェが人間を必要とする理由は、彼は意識されねば存在できないため。

2神を超えたヨブ


艱難の中でヨブは神さえ持たない神的な認識の高みに立つ。神の内的な悪と善の二律背反という全体性を認識することでヨブは神のヌミノースな性質まで達する。ヤーヴェはサタンを自身の意識から隠し、その代わりにヨブを標的にする。ヤーヴェがヨブを貶めることによって知らずにヨブは自身を高めた。

3人間になるためにソフィアを必要とするヤーヴェ


神を認識したヨブが神を変えた。自身の誠実を信じられず、不義も成せなくなった神は自身を知るためにソフィアが必要になる。人間も自身の情動に溺れ抑制できない場合、ヤーヴェのように自身のしていることに無知の状態になる。ヨブの神の認識は神だけでなく人間にも知恵を想起させた。神の領域へのソフィアの再登場が来るべき創造的な出来事を暗示している。神がソフィアとの天上の結婚の秘儀によって新たに生まれ変わろうとする、人間になろうとする。

4ソフィアの生まれ変わりのマリアには十全性がない


ソフィアの生まれ変わりである処女マリアは神によって原罪の穢れから逃れたために、原罪を持つために救済が必要な普通の人間から除外された。従って彼女もその子も神。マリアの人格が男性的完全性に近づく展開は女性的十全性が病んでいることを示す。その先にある破滅の道は十全性によって回避できる。

5キリスト誕生は一回性にして永遠


キリスト誕生は歴史的一回性にして永遠に存在し続けている。全ての歴史現象がプレローマにおいては同時的に存在し、それが時間の中に非規則的反復として現れる。ヤーヴェは被造物の中に自分を入れ込むことだけした。あらゆる可能性が神の中に含まれている。最初から万物の中に神が存在している。神の人間化とは神の客観化というかつての創造に匹敵するもの。この傾向の様々な先駆は意識化過程のそれぞれの段階を示している。

※プレローマ グノーシス主義における霊界、根源的な原初の状態。形も音もない無の状態にして永遠で充溢

6人間化の目的はヤーヴェの意識の分化


ヤーヴェにソフィアが手を貸すとは、つまり外的出来事が無意識の知に触れて意識化され知が想起されることを意味する。神は全知であるゆえに人間にした不正を償う必要を、また道徳律が彼を支配することをも知っている。人間化の目的はヤーヴェの意識の分化。極度の緊張状態、激情を伴う急転なくして高い意識水準は得られない。

7神が人間の苦痛を経験してヨブへの答えが与えられる


キリストの犠牲死においてヨブが耐えた経験を神も経験する。彼の人間的な存在は神性を獲得し、ここにおいてヨブへの答えが与えられる。キリストの姿を合理的に脱神話化して考えることは出来ない。宗教は我々を永遠の神話に結びつける機能を意味している。神話は常に繰り返され何度でも観察され得る事実を基にしている。キリストの一生はヤーヴェとヨブが結合して一つの人格になったかのよう。ヨブとの確執で生じた人間化というヤーヴェの意図はキリストの人生と苦悩の中で結合する。

8キリストの死の理由はヨブへの償いと人間の成長のため


キリストの死の理由は一方ではヨブへの不正に対する償いのため、他方では人間を精神的道徳的により高く成長させるための業を意味する。神がヨブにしたことは人間の立場からすれば幼い子どもたちの道徳的堅固さを試すために危険な目に会うような行為に誘ったようなもの。それは最も不道徳的なこと。

9パラクレートによって神は人類に絶えず受肉する


キリストが人類に派遣したパラクレートは信ずる者を真理に導く。キリストは神が人類に絶えず受肉すると考えていた。キリストへの神の受肉は処女出生と無罪科という光だった。だが神と人間の和解には、神も人間同様に苦しむという闇によって理解される補完が必要。ヨブと人類に降りかかった不正に対する償いは神の義に基づき神が人間に受肉することで得る事が出来る。この償いの行為はパラクレートで実行される。キリストの救済の業の中でも重要な犠牲死による償いが、人間と神を和解させ、神の怒りと永劫の罰という人間の宿命から解放する。


※パラクレート 助け主、真理の御霊

10葛藤の中での自己認識こそが神を認識する道


神への恐怖からの救済を可能にするためにヤーヴェを愛の父として無反省、無知性で信じれば知性、道徳的な力を分離し最悪の義務の葛藤に陥る。葛藤は人間を神の認識へと近づける。救済とは葛藤の中で苦悩することであり、神の対立性を意識、認識すること。その中でこそキリスト教徒はその重荷を負う限り神性への救済を経験する。この方法によってのみ彼の内で神の人間化が実現する。救済の業とは人間に対する神の不正の償い。キリスト教徒に要求される自己認識が神を認識する道を開く。

11プレローマにおける神の受肉と四者性が誰にでも起こる


天使がエノクを人間の息子と呼ぶのは、ヤーヴェがエゼキエルを人間の息子と呼ぶのと同様にキリストの啓示の先駆形態、神の秘儀との同化を意味する。エノクはヨブに無意識のうちに答えを与えている。正義の人間の息子は、正義を神が忘れた場合に人間のために神の前に進み出る事になり、義人は平和を得る事になる。ヨブは自分を弁護するエノクの神への高まりを予感している。人間の息子は予め存在しているためヨブは彼に語った。神がエゼキエルに人間の息子と呼ぶことで暗示されているのは、プレローマにおける神の受肉と四者性が誰にでも神の変化と人間化によって起こるだろうという事。エノクと同様に人類も神を見る機会が得られ、神を知り、それによって不死となることができる。

12パラクレートは人間を高め、同時にヨハネ黙示録を引き出す


キリストの犠牲後に人間に宿るパラクレートによって人間は神の息子に高められ、人間の息子が完成し仲保者の地位につく。神の人間化の際に悪は抑圧されたため悪との衝突が近づく。神が善のみ受肉し人間にもそう見なされたいと欲せばエナンティオドロミーが起きる。神が依然として自身の暗さに無自覚である事態にパラクレートは人間の無意識をかき乱し、ヨハネ黙示録を引き出した。


※エナンティオドロミー ヘラクレイトスの用いた概念。万物は対立、抗争しながらその対立するものへと変化、逆流するという考え。ユングはこの概念を、意識の過剰な一面化によって無意識の中に逆の傾向が強まり、その作用によってやがて意識の在り方が逆転するという意味で使用

13黙示録の太陽の女の十全性。その息子の全体性


黙示録の太陽の女はただの女のため十全な女性性が奪われていない。唯一の例外は彼女が女性の原人であり、世界霊魂として宇宙的自然的属性が刻印されていること。暗闇の中に男性的な意識の太陽を孕み、明るさに暗闇を加える彼女は対立物の聖婚を意味し、生まれる息子は必然的に対立物の結合、結合のシンボル、生の全体性。キリスト誕生との類似から終末時に第二の救世主が期待されている。だが彼はキリストではない。誕生の描写がギリシャ神話的なのは、この幻視がキリスト教伝説とは反対に無意識の産物であることを示している。ヨハネ自身の無意識の人格がキリストと同一視されている。無意識の中で再び生まれる神がヨハネの自己と区別しがたいのは神の子もキリスト同様のシンボルのため。

14黙示録の最後は快楽を拒絶し光と光の結合という対立者の分裂


黙示録最後の幻視は子羊と花嫁エルサレムの聖婚として結合のシンボル、完全性と全体性、四者性を表現している。清浄の保証を再び要するとは消えてない疑いを逆に強める。神の玉座は楽園とプレローマを暗示。神と子羊が聖所であるこの都はソフィアであり、原初以来再び神との結合により始原状態の回復と神と都の同一性を示す。これは最も大きな普遍的元型。ここでの葛藤の解決は対立するもの同士の和解ではなく分裂の形でされ、人間は快楽を拒絶し光との同一化で救われるとされている。

15黙示録は個人的であり集合的。その目的は神の認識


黙示録は個人的でありながら、意識の一面的な構えの補償をはるかに超えているため集合的。その幻視の目的は神の認識。ヨハネが神や仲間を愛する生活に尽力していたからこそ暴力的な啓示が彼を襲い、その意識の一面性を補い神の恐ろしい二重性をヨハネは知った。彼はキリスト教時代の縮図を描いた。エナンティオドロミーとアンチキリスト、暗い終末を我々はまだ体験していない。だがその可能性に人類は戦慄を覚える。

16宗教的立場も科学的合理的な立場も不十分


宗教的立場も科学的合理的な立場も自らの立場が不十分である事は感じとっている。前者は疑うことに不快、怖れを抱き、後者は対象のヌミノーゼ性を認める事が出来ない。後者は理性に所有されている。だが理性的判断を超える裁決者は多くいる。我々はヌミノーゼを持つために激情的に論争が起こる形而上的命題がある事実から出発すべき。

17我々には神概念との対決が必要


原始キリスト教徒と違い現代人は精神の分化や科学の発達により相対的に黒いため悪を和らげると同時に悪に染まりやすい。そのため以前は必要なかった矛盾した神概念との対決が必要になった。神の矛盾は意識には解き難い葛藤に曝す。だが夢は非合理な解決となる第三者、結合のシンボルを提案する。それは太陽の女の息子と同じ。神概念の葛藤を経験したヨハネは幻視で対立物の結合を特徴とする神の誕生を経験した。ヤーヴェの人間化の決断は、人間が神概念との対決を意識すると必ず始まる発達のシンボル。無意識は分離と結合の両方を欲すため神は人間になろうとするも完全になろうとはしない。神のこの葛藤の大きさから人間化は神の暗い面に対する贖罪でのみ得られる。神は原罪から解放されてない人間として再び生まれたがっている。ヨハネの中に怒りと復讐の神が侵入したことで生まれた未来の救世主のイメージは誰の中にもいる。未知の父と知恵から生まれ、白にも黒にも見える我々の意識を超えた永遠の少年にファウストがなったのは悪魔を外にのみ見る高慢な一面性からの脱却の必要から。黙示録の結末は典型的な個性化過程。光と光の結合がキリスト教時代に実現されて後、人間に受肉できる。終末の時に初めて太陽の女の幻視が実現される。マリア被昇天の教義は神の人間化を、即ちヨハネの幻視の比喩的な実現としては人間への受肉を、また終末時の子羊の結婚の暗示やソフィアを再び想起することとしてはキリストへの受肉を予言している。

18意識の課題は対立者の結合のシンボルを理解すること



与えられた巨大な破壊の力を制御するには自身の力を超えた永遠の少年による断片化していた人間を救い全体化する働きを必要とする。人間の全体像である自己とは、無意識から自発的に出て来た一人の人間全体の目標。意志に沿うにせよ逆らうにせよ彼の全体性と個性の実現。この過程を推し進める本能は主体の意識とは無関係。だが主観的に自らがどう生きているかを理解したり自らが意図実行したことの責任を明確化する事は大事。意識の課題は、隠されているものの意志化で生じた葛藤に対し、夢が示す対立するもののシンボルや目標像が両者の結合を表現していることを理解すること。目標への到達は時宜にかなった努力と忍耐によって運命の道に現れる神々を理解するとき。高い道徳へ到達できるかどうか。だが己を知らねば先に自力で進めない。己を理解し神を認識するには神の性質と天上の出来事を知る事が必要。神の矛盾の統一が人間の中で起こることは人間の新たな責任を意味する。

19神話素の真理の理解には、精神の自由と心理学が必要


被昇天が神の母を天に上げたいという民衆の熱望なら、その傾向は救世主、調停者、争う者の中に平和を打ち立てる仲保者の誕生の願望を意味している。彼はプレローマの中では常に生まれている。だが彼が時間の中で誕生するにはそれが人間によって気づかれ、認識され、宣言されることによって初めて実現される。被昇天の宣言は神の受肉の進展を意味している。神の人間化、受肉を聖霊よって時間の中で進める。プロテスタンティズムが注意を払わなかった男女同権は女性的なものをキリストのように代表されることを要求であり、仲介者マリアはキリストと同価値を持った。プロテスタントはカトリックの存在を認める事も必要。プロテスタントは新教義によって時代精神に対する新しい責任が課せられているのを理解し、他の教義的主張がその字句の意味の他に何を意味しているか問うこと。心の深奥に根差す真理への邁進には精神の自由が必要。それがプロテスタンティズムには保証されている。神話素が明瞭に現れている被昇天は心理学的理解が必要。聖婚、神の子の誕生、人間が誕生の場は個性化過程を意味する。この意識化には意識が無意識と対決し両者間の平衡の発見が必要。対立物の非合理的結合にはシンボルが必要。この過程の中心的シンボルは自己、即ち人間の全体性。自己は意識内容と無意識内容から成る。それは十全な人間。シンボルは神の子やそれと同義のもの。個性化過程が無意識のままで進むと終始曖昧なまま。対して意識的にされると多くの曖昧なものが光に照らされ人格が解き明かされ意識が広がりと洞察を獲得する。意識と無意識の対決は光が闇によって理解され、闇自体をも理解するという形でされる事が必要。太陽と月の息子は対立物が結合される事のシンボルであり可能性。神が我々に及ぼす作用が無意識と異なるかは確認できない。だがそれ自体中心的位置を占める全体性の元型が神像に近いということはあり得る。この元型は昔から神的特徴や姿を示すようなシンボル群を産み出していた。厳密には神像は無意識自体とではなく自己元型と一致してる。この元型と神像は不分離。宗教的欲求は全体性を求め、無意識の提供する全体性のイメージを得る。

20多くの人間が聖霊の内在でキリスト化


シンボルの発達に対応している意識の分化過程も元型の力の干渉の結果。心の状態は人間の外側からは観察できず、元型を研究する際は意識の影響を受ける。元型のある程度の自律性と、意識のある程度の創造的な自由という相対的に自律した二つの要因の間に相互作用が生じる。どちらも行為する主体。聖霊が人間に内在することで多くの人間のキリスト化が生じ、彼らは完全な神人なのかという問題が起きる。こうした変化によって強い葛藤が生ずるであろう。パウロは己を啓示を受けた使徒と感じる一方で悪に囚われる罪人とも感じている。依然として人間のままであり、彼に内在する全てを包む存在の前では小さな自我。


感想

訳者の林道義がユングの数ある著作の中でも最高傑作と呼ぶ本書。それは単にユング心理学を応用したからではなく、著者個人の主体的な問題意識から世界史的な問題に切り込んでいるためだと言う。オレが本書を読んで面白いと思ったところもそこだった。西欧では伝統的にヤーヴェは絶対的に善なるものとされている。だがユングはヨブを貶めた悪魔の謀略を神が認可したことを不正不義であると正面から指摘した。訳者によれば本書によってユングは多くの非難を受けたという。単なる批判で終わるならユングの指摘を無視してもいいだろう。だがそこにはどうしても譲れない真実があるとユングは見ていたために正面から神とぶつかったということを考慮することが必要ではないだろうか。ユングの神への批判は他のユングの著作には少し見られないほど激しい箇所がある。それは、キリスト教の教育を受けた西欧の現代人には激情に身を任し主観的反応を示すことが神との対立における正確な認識に必要の為、ユング自らがそれを率先して示して見せたということだった。ユングは神の不正に言及する時にこのような例を出している。研究者は自らが培養したバクテリアの結果が思うようにいかなくてもバクテリアに怒りをぶつけたりはしない。それは自らの実験の失敗として責任をもって受け入れる。対して神は自らの不手際を棚に上げ無責任で道徳を全く持たない。他者に対する大きな怒りは自らにとってそれが脅威であるために起こる。即ち神がヨブに怒るのは自分よりはるかに小さい人間であるヨブが神にはない道徳や知恵を得たために自分に匹敵する存在として脅威に思うために怒るのだ、と。またこういう例も出す。ある大人が自分が信用されているか確かめるために子どもたちを危険な目に合わせるのは非難されて然るべき非道な事である、ましてや大人と子どもよりはるかに力関係が離れている神と人間において、神が人間、特に神に誠実で深く信仰していたヨブにあのような仕打ちをしたのは許してはならない非道であると。確かそのように言っていたように思う。オレなんかはこれは真っ当な批判であるように思うものの、聖書が日常にある西欧圏において、このような発言をするのはよほど勇気の要ることであったのではないだろうか。

こうした箇所を面白く思ったものの、しかし全体として読んで思うのは、ユングの著書を読んでいつも思うことではあるもののそこには現代に欠けているものが呈示してあるということだ。特に今回読んだ本書は80歳近い晩年のユングが書いたものであり、その内容はその数年後にユングが書いた文明論『現在と未来』を先取りしているような印象を持った。


本書で言われている神の人間化と人間の神化とは『自我と無意識』で言う無意識と意識の接近ということであり、また本書で言う太陽の女の産んだ子どもとは心理学的概念でいう自己元型のことになる。内容自体は他のユングの著作同様に個性化過程について述べたものではあるものの、題材が聖書の中でも難解とされるヨブ記やヨハネ黙示録であるため、従来のキリスト教的解釈では不明だったものが心理学的解釈によって鮮やかに解かれている様は、キリスト教についてほぼ知らないオレからしてみれば非常に納得のいく解釈であった。同時にキリスト教徒が読んでもかなり有益ではないかと思った。創世期と進化論は、それぞれ信仰の真理と自然科学の真理を述べたものだと今のキリスト教徒は理解しているのなら、心理学やプロテスタンティズムの哲学的な自由な精神から神話素を科学的に解釈するのも同様に否定せず肯定し得るものだと考えられる。


また、オレが羨ましく思ったのは、西欧の人の聖書に対する葛藤そのものがそのまま西欧の精神的発展に繋がり得るという文化的土壌が存在していることだった。聖書は未開人の通過儀礼のように人間の普遍的な個性化過程を含有したものの残滓でもあり、その聖書が当たり前のように人々の生活の一部を成して広く浸透している西洋においては、それを科学的に解釈すればいつでも聖書は人間に個性化過程への道を開いてくれる。日本にはそういう土壌はないとはいえ、やること自体は東西問わず自由な考える精神を持って物事に取り組む事にある事は変わらない。


本書10章では神を善としてしか見ないために起こる葛藤について言及されており、ユングは葛藤すること自体がそのまま救いでもあると述べる。内的な対立の苦痛が救いでもあるのは、救済者が十字架に架けられ苦しんでいるというイメージが二千年間も救いを意味していることに現れているという。「最も極端にして最も恐ろしい葛藤の中においてこそ、キリスト教徒は、それに負けないで、刻印を押された人であるという重荷を自らに引き受けるかぎりで、神性への救済を経験する。このようにして、そしてこの方法によってのみ、彼の内で《神の像》が・神の人間化が・実現する」


この神性への救済の経験こそユングの言う個性化という目標の結実のことだった。だが啓示というそのような経験をして使徒になったパウロでも依然強い葛藤はあり、自分は悪に囚われている罪人とも感じているということが20章で言及されていた。それでも葛藤の苦痛自体が救いでもあるということはキリスト教徒に限らないように思う。ユングは『現在と未来』では意志の届く限り自己認識を果たす決意を遂行することが宗教体験の源泉に近づくことが出来ると述べていた。葛藤や矛盾を自覚し続ける事がその人がよりその人自身になることを助けるのだろう。


訳者解説の要約


訳者はユングの他の著書も翻訳してきた経験から、本書には書かれていないユング心理学の基礎知識や前提となる考えも含めて解説してあり参考になることが多々あった(ユング著作の翻訳はこうした解説や付録が充実しているものが少なくないように思う)
以下、その箇条書き


本書は人間の心の変容を意識と無意識の相互作用を通して明らかにする。元型を理解するにはその作用を敏感に感受しながらそれが何であるかを分析し、客観的に見定める作業が必要

神の非道を訴えるヨブに対し神は力を誇示し、ヨブは困惑し恐怖する。ユングはまずヨブのこの体験を共有する
ヨブが認識した神とは善悪を越えた非道徳性や多くの矛盾や不合理を蔵した存在であり、それは無意識の持つ性質と同じだった。
神は障害に遭わず自省の必要がないため暗い。対してヨブのように苦しむ者は認識の光を持つ。この点でヨブは知らずに神より優位に立った
ヨブと神の角逐は当時の人々の意識と無意識の布置だった。意識が発展していたため神の矛盾が認識された。これに対し神、無意識はどう反応したかが本書の主題

神の変化とは神のイメージの変化のこと。人間が知る事が出来るのは神自体ではなく神のイメージ。そのイメージは意識と無意識の布置関係の変化で変わる
また神とサタン、キリスト、人間といった関係含めて神の世界全体の布置が神の変化において考えられている
神と人間との関係はキリストへの受肉によって決定的に変化する。受肉の準備を意味する現象としてユングが注目したのがソフィアの想起と人間の息子の出現
ヤーヴェが知恵の神ソフィアを想起したのはヨブとの角逐で無知や不義を改善する必要が出たため。神の自省で神は意識を増大し変化する
正義をもたらす者にして神的な四者性を持つ人間の息子エノクはイエスの先駆形態。彼は神の人間化願望と人間も神の世界へ関与できることを示す

神の人間化の心理的意味とは、当時の人々の集合的な心の状態が神の無意識的で暴君的なイメージに堪え得ず、意識的な人間的なイメージを求めていたということ

マリアの神格化によってその子どものキリストも神として人間の本質である罪が届かず、善悪を備える事ができない。また彼は英雄元型に則っているため神人
だがキリストの人間化が不十分であることは、神の人間化が今後さらに進むはずだという問題意識をユングは持っていた

神の人間化とは、神が神であるままで人間にもなるという意味。その場合の人間が罪や悪を備えた普通の人間であるかどうかで人間化の程度がわかる
神の人間化や人間の神化の観念は人間の心や宗教が神話的という考え方が基礎にある。誰の心も神的部分、人間的部分から成る。誰でも神話的人生を持ちうる
受肉も神の子の犠牲と復活もイエス個人に一回きり起こったものではなく、誰にでも内的、心的に常に繰り返し何回でも起こり、また起こり得ること
その神話は聖霊パラクレートによって普通の人間にも受肉され発展していく。神の人間化が進むとは、人間による神の意識化が進むということを意味している

人間の神化、あるいは人間の中に神的なものが宿るというイメージは、心理的には救いの働きは人間の外から与えられるのではなく内に存在していることを表す
キリストの犠牲死の意味は、人間を救うためではなくヨブに与えた事を経験するため、神の不正に対する償いのため。責任は神にありイエスにはない。
神と人間の和解は神が人間の苦痛と死を経験することで成立する。人間は罪から解放されるのではなく、神の怒りへの恐怖から解放される

善一辺倒になると悪へのエナンティオドロミーが起きる。それがヨハネの福音書と黙示録の関係。黙示録のキリスト、ヨハネは彼等の影、即ちアンチキリスト
黙示録はキリストが支配する千年後に暗黒の未来の到来を示す。ヨハネは神の中に矛盾や二律背反が存在し、神がヌミノースな二重性を持つことを見ていた

黙示録の天にいる太陽の女は二千年後のマリア被昇天を予言している。公布の背後に神の母が天にいてほしいという民衆の欲求が集合的に存在していた
神の母は人間として滅んだのではなく天に引き上げられ永遠に生きているなら、彼女は何度でも神の息子、救世主を生む。神が人間になる過程がより進む
天上の聖婚の意味は、従来の善一辺倒の受肉を補い、より進展するため誕生の場を罪を持つ被造物にすることが相応しいということ
もう一つの意味は対立を調停し平和を実現したい願望を実践できるという希望を表す。1950年は合理主義唯物論によって精神的心的財産が絶滅する惧れの時代
マリアが肉身で天に受け入れられたのは対立する精神と物質の結合を意味する。これが今の時代の分裂を補償する兆し。
これがヨブの問いかけに対して神が与えた答えでもある被昇天の意味

神の人間化とは神の意識化のこと。人間の神化とは人間が内なる神、自己を知る、体験するということ。神を理念へと変容することが現在では人類的な課題
人間が神を意識化し、自我が内なる神と同一化すると人間は無限の傲慢に陥る。それを防ぐには高い道徳的段階に達し、自身の性質をより深く知るしかない
人間がサタンの使いから逃れられない罪人と彼を包み込む神的な存在との間の分裂に悩まされたりどちらかに憑かれないためには両方を意識化する必要がある

変容した神は今も非道な無意識が残っているためユングは自らの自己実現の過程と矛盾していることを言っていると秋山は批判している
秋山の間違いはシンボルの繰り返し性に無理解であるのとシンボルの世界と現実の世界を混同しているところにある
シンボルの繰り返し性とは個々人における意識化過程を表す。現代人の中にもヤーヴェ的な非道な神は出てくるし、その意識化で愛の神へ変容する事もある
ユングが言おうとしたのは人間が非道の神に打ち克つ事が可能であること、人間は意識化の過程を通じて無意識の神を克服することが可能という事だった


サムネはパブリックドメインのウィリアムブレイクの絵画『大赤龍と太陽をまとった女』より

参考文献『ヨブへの答え』C.G ユング 林道義 訳 みすず書房 1988年3月

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