【AIR】感想

アニメ・漫画など

アニメAIRを観たので感想をば 

AIRて何ぞ

旅人の主人公が静かな町で翼人伝説と関わる話。原作はR18のゲームみたい 

ほほう!では…ムフフなシーンもあるのかえ?

ないよ

だいぶ前にあったアニメで、今になって観たけど率直に言ってよかったです。ネタバレあります。  

結論

AIRは  

自分の人生や運命を愛することが大事とする物語   

だと思った。

AIRの物語は観鈴、佳乃、美凪をメインにしたストーリーになっていて、それぞれが幼少時から何かを抱えていて、それが彼女らの母親と深いところで関連しているように思えた。主に母と娘を中心に、家族の意味や大切さが描かれていたように思う。 

神尾観鈴

自分の人生を精一杯生き切った少女 

往人が最初に出会う少女でAIRのヒロインの中でもメインの存在。明るくて素直だけど少し変なところがある普通の少女だと当初は思っていたら、実は誰かと仲良くなりそうになったら泣きだしてしまう症状を持っていた。また、翼人の魂を受け継いでいるため、夢に蝕まれてあるはずのない痛みを感じ、大切な人のことを忘れ、最後の夢を見た後は亡くなってしまうという宿命も持っていた。 

これについては、オレは前者と後者は区別できると思った。前者は観鈴個人の問題により大きく関わるもので、後者は個人を離れた前世の因縁に大きく関わるものだと思われた。 

堤防の境界線

観鈴はいつも堤防から海を眺めていて、堤防から降りて砂浜まで行ったことはなかった。それは、観鈴が友達と一緒に遊びたいという願いを持ちながらも発作によってそれが叶わなかったことの現れであるように思う。堤防から砂浜まで行けない状況が観鈴の状態を表していた。逆に言えばそれを妨げるものの解消によってこの限界を突破できることになるのではないか。  

晴子と観鈴

観鈴の母親は観鈴が生まれてすぐに亡くなったという。大勢の中に住むことの出来ない観鈴は、静かな町に住む母親の妹の晴子に押しつけられた。本当の親子ではないため、観鈴はいつも晴子の迷惑にならないようにしてきたという。しかしそんな観鈴にも十年前に一度だけ晴子に甘えたことがあった。それは夏祭りの日に屋台で売っていたヒヨコが欲しいというものだった。晴子は屋台で売ってるものなど育つはずがないという思いと、当時は自分の生き方を守るので精一杯の時期であったためヒヨコを買わなかった。 

オレが思うに、おそらくその日か翌日以降から観鈴は発作を起こすようになったのではないだろうか。それは、それが原因というより、それが引き金になったということだと思う。佳乃の場合と同じことで、小さな頃に心に大きな負担を抱えていたことが原因で、買ってもらえなかったことそれ自体は原因ではないということだ。観鈴は往人にこう言っている。本当に欲しかったのはヒヨコではなく、晴子に買って貰えるなら何でもよかったと。観鈴の願いは晴子に母親になってほしいということであり、晴子の子どもに観鈴もなりたいということだったのではないか。それが叶わない状態が堤防から砂浜まで行けないという状況に現れていたように思う。     

再スタート

そういう状況が往人の登場で改善し始める。往人は晴子に、観鈴が晴子に甘えられないことを述べ、母親としての自覚を持つように叱責する。しかしこれは晴子にとっても言われるまでもないことで、ずっとそのことは考えていたことだった。観鈴が晴子のことを想ってきたように、晴子もまた観鈴のことを想ってきた。ただ互いに自分を胡麻化してきただけだったので、往人の言葉で決心し、観鈴を自分の子どもにするために晴子は行動を始めた。そうしたこともあって(その間に往人は消失するけど)母と娘の距離は急速に縮まっていく。それは二人でここから再スタートしようという台詞にも表れている。   

転機

再スタートを始めてすぐに観鈴は前世からの因縁によって生じた記憶喪失によって晴子のことを忘れてしまう。さらに夢に体を蝕まれているため足が動かなくなる。観鈴の父親の啓介はそうした観鈴を見て晴子から観鈴を引き取ろうとする。そうして三日後に海辺で観鈴を引き渡すことになった。この浜辺は以前の観鈴には来れなかった場所だった。記憶喪失や引き渡されるという危機的状況にあるとはいえ、観鈴は以前の状況から前進していることになる。それは二人の距離が縮まっていることの表れなのだろうか。いざ引き渡すと観鈴は記憶を失いながらも啓介を拒否して晴子のもとに駆ける。危機的状況がかえって観鈴の本当に望んでいたことを叶えさせる手伝いをすることになった。それは、観鈴がこれまで迷惑になると思って言えなかった願いが晴子に届いたということのように思えた。 

夏祭り

夏祭りの日、十年ぶりに二人で一緒に行こうとするも雨のため中止になっていた。しかし、神社の拝殿で雨宿りしていると、賽銭箱の上に以前晴子が観鈴に渡せず捨ててしまった恐竜のぬいぐるみが置いてあった。晴子が買ったそのプレゼントを観鈴が手に入れたことで、観鈴の個人的な問題と病気は解消されたと思った。その証拠に、観鈴は浜辺での出来事以降は晴子のことをママと呼んでいたことに対し、この時から記憶を失う前のようにお母さんと呼ぶようになっている。これはただ以前の状況に戻ったのではなく、十年前の状況から関係をやり直し、再スタートしてから戻ってきたため、もう観鈴を不安にさせるものは何もないということではないだろうか。もしそうなら、今の観鈴は誰と友達になろうとしても発作は起こらないように思う。 

ゴール

足の動かない観鈴が晴子のもとまで歩いて辿り着き生を全うするシーンは観鈴のこれまで歩んできた過程を表しているように思う。観鈴は不治の病を抱えながらも個人的な問題と病気を解決した。そしてそれは観鈴の本当の願いと関りを持つものであったため、それが観鈴を本当に癒し幸福にすることができた。観鈴にとっては不治の病でさえ幸福になるための条件であった。翼人の魂と関係があるからこそ往人に出会うことが出来、またその病気が晴子との関係に良い転機をもたらしさえした。こういう観鈴の姿勢はニーチェの永遠回帰や運命愛という考えに似ているのかもしれない。   

まとめ

そのため、AIRは自分を愛することが大事ということが描かれているように思った。佳乃も美凪もそれに通ずるところはあると思っている。また、柳也が師の雲水の気持ちに気づかず、気づいていたら道は違ったかもしれないと言った時に、神奈がそれでは柳也と出会えなかったと言うシーンがある。過去を悔いるときには必ずそうした今を忘れているため、それとは逆に過去に今の意味を新しく見出していくことが自身の存在を肯定する力となるというような、そういう姿勢がAIRでは多く共通していると思った。 

ラストについて

あの少年と少女の正体が実は…というタイトルロゴの種明かしの意味合いが大きいように思う。でもアニメだと途中で彼らが手をつないで歩くシーンがあってそれがロゴに似ていたから何となく最後の予感はしてた。それよりオレは途中で判明するThe 1000th summerの意味の方が驚いた。そういう話だったのかと。 

そのため、あのラストはいわばエピローグ、おまけであり、それ自体には特に深い意味はないとオレは思った。その上で、あえて深読みしてみる。  

なんでや

それはオレが物語を深読みするのが好きなためです

他サイトによるとこのラストの少年と少女は往人と翼人の魂や呪いから解放された観鈴らしい。 

少年と少女が遊ぶ砂浜は、以前の観鈴には届かない場所にあるものだった。また、観鈴にとって届かない場所とは空も意味していた。小さい頃から空に想いを馳せていて、そこにもう一人の本当の自分がいると思っていた観鈴にとって、浜辺で遊ぶ少女こそ空にいるもう一人の自分とも言える。往人の願いも空にいる少女を探すことであったため、二人の小さい頃からの願いがこのラストで叶えられているとも見れる。 

あの頃の夏

AIRの舞台は夏で、輪廻した後の世界は過去であり、子どもの頃から新しく始めるというラストだった。「夏」「過去」「子ども」というところから、そのラストが表しているのは「子どもの頃の夏休み」ではないかと連想した。それで思い出したのが池田晶子の「夏休みは輝く」という文章で、それには子どもの生命は原始的な形に近く、夏という生命漲る季節と夏休みという長い解放感によって子どもはその本来の躍動的生命へと還ることが出来ると述べられている。大人はその日々を原点として前方の流れる時間の中に生きている。対して子どもは回帰するほどの記憶を持っていないため時間を持っていない。生命そのものとして存在する子どもの現在は永遠とも呼べるとし、大人はそうした子どもの夏休みという凝縮された輝きを超えることはもうないと実感していると述べていた。 

生命そのものであり、永遠性を持つ子どもは、ユングによると同時に過去でもあり、新しい未来へ出発する存在でもあるという。それはいわば一つの完成した象徴であり、そうした要素は全ての人間が持つ心理的基盤でもあると述べている。仏教の輪廻や未開人の不死の思想、科学の法則などはそういう基盤から発生したらしい。そうした古代から普遍的な機能は、古代より人々に幾多の知恵を授けてきたという翼人たちにも類似しているものがあるように思う。 

二人が輪廻をして再び新しく生まれ変わった場所は子どもの頃の郷愁の場所であり、それが夏の海辺で遊ぶ子どもたちという描写になった。ここには母と子というAIRのテーマも現れている。永遠性を持つ子どもを誕生させるのは母であり、海を母なる海と言うこともあるように、その場所は母性的な性質を帯びている。海は生命を育む母胎であり、夏は生命の漲る季節。そういう人生の源である「あの頃の永遠性を持った夏休み」がAIRの世界観のコンセプトになっていて、それがタイトルロゴにもなったあのラストとして現れたのではないだろうか。 

  

一言で言えば、往人と観鈴の物語が終わり、二人(あるいはもっと)が輪廻して戻ってきたところが、「あの頃の夏」というAIRの根底にある場所だったのではないか?ということです。

ほんとお?

もちろんオレの妄想に決まってます

妄想乙w 

参考文献 

『NHK100分de名著ニーチェ ツァラトゥストラ』西研 

『暮らしの哲学』池田晶子 

『自我と無意識』ユング 松代洋一/渡辺学 訳 

 他、AIRの関連サイト多数 

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