【侍の意味と価値】最後の侍河井継之助について

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侍の抱いていた人生観や価値観を知りたくて、河井継之助を描いた大佛次郎の史伝文学『天皇の世紀』の「金城自壊」や司馬遼太郎の歴史小説『峠』と『英雄児』を最近読んだ。戊辰戦争で賊軍と呼ばれ、勝敗は決していながら自らの信念に殉じた侍たちは勝ち負けではなく、それとは別の物のために戦っていた。
戊辰戦争で最も壮烈な戦いの一つと呼ばれた北越戦争で西軍を悩ませた河井継之助は、大将でありながら戦場で兵と肩を並べて戦い、兵も彼の人間的魅力に惹かれ、無理な戦いにも勇敢に戦ったと大佛は述べている。諸藩の家老が堕落している中、戦場の最前線で戦った家老はこの男だけだった。


東日本随一の俊傑であるこの男の勇壮を示すエピソードは枚挙にいとまがない。


北越戦争が始まる前の時期に、混乱期に増加した無法の荒くれものたちで大部分が構成されていた衝鋒隊が幕府の直轄領で強盗などの横暴を働きながら、移動中に寄った藩に対して金穀を出すか城を譲るかなどの脅迫を繰り返し新潟に屯集していたことがあった。その勢力が千人近いという相当数であるのと新鋭の武器を持っていること、また幕府のために戦うことを表明しているため、北越の諸藩も処置に困り逡巡していた中、継之助は知らせを聞いて直ぐに駆けつけ、街のあちこちで傍若無人な振る舞いをしている歩兵たちを叱って退去させた後、怯えて店を閉じていた住民に店を開かせ、衝鋒隊隊長の古屋佐久左衛門を呼び出し、その不心得を問責して新潟だけでなく越後からも引き払うことを承諾させた。

鳥羽伏見の戦いの前に朝廷に提出した建言書では、他の大小名が新政府の意向に怯える中で朝廷と薩長の誤りを説明していた。旧幕府の勢力を武力で討伐する気運が充満している中でそれを無視したような内容を書いた人は他にいなかった。この内容は後の小千谷での西軍との談判時に持参した嘆願書でも変わっていなかった。


これらは『天皇の世紀』と『峠』のどちらにも描かれていて、作品の作者はどちらもその行為を勇気あるものと評している。江戸遊学時の継之助も描いている『峠』では、他に江戸の銭湯における侠客同士の喧嘩を気魄で調停した話や、藩政改革において禁止した賭博や畜妾を影で行っていると噂のある所に郡奉行自ら博打師や人夫に変装して潜入し処置した話などもあった。最初に読んだときはさすがにこれらは司馬の創作だろうと思いきや、やっぱり気になって物語の下敷きにしたという今泉鐸次郎の『河井継之助伝』(ネットで無料で読めた)で確認すると、どうやらそれらが事実として伝わっていることが分かった。大佛は、この威厳ある平凡で厳格な武士は常人には摩擦が多く困難な事を一途に全力を出し気軽に実現出来る人だったと述べている。

継之助は時代の動きをよく見通していたという評価が一般に多いことに対し、大佛は、それは後世がそう見るに過ぎないと述べる。彼は他の北越の人間と比べて開明的でありながら、やはり北越の土着の性格からは開放されず、それが藩という封建領土に執着させ、そこからの変化を拒否させたと見ていた。そのため時代によって動く現象には視力が及びかねる点があったとし、そうした古武士的な性格が彼に無理を押すことになると述べている。


大佛は、継之助は最初は武門の意地など信じていなかったと述べながら、しかしそれを発揚させ、それを官軍に示すために戦争に臨んだ理由は次のような覚悟にあったと視る。

「驕って無道の横車を押してくる官軍に日本全国の大小名が威伏せられ無気力に堕している腑甲斐ない末世の現象の中に、長岡藩がひとり消え行く武士道の最後の栄ある働きを示して斃れよう、と確かに昔風に、覚悟を固めているのに過ぎなかった」


もともと戦意がなく、また長岡藩だけでなく日本の将来を思って中立を標榜していた継之助は、しかしこうした現象をどうしても許せないとする性格だった。戦争が起きれば百姓たちが苦しむことを知りながら、同時に西南の諸藩がそれまで開国の方針だった幕府に反対して攘夷運動を起こし、その後節操なく開国に転じて幕府を倒そうとし、その幕府を献身的に支えていた会津藩のみに逆賊の名を負わせて奥羽の地を土足で踏み荒らしていることも知っている。こうした無道を、しかし東日本のほとんどの諸藩はただ西軍の武力に怯えて最初から反抗することもせずに諦めている。こうも簡単に古来からの武士的精神を失っていく東西の武士に対し、継之助の武士の意地は発揚した。それは継之助の古くからの信条である「日本国の人理」がこのままでは棄絶に至るという危機感と「特に彼の潔白の精神」にあったと大佛は視た。

「日本国の人理」は「これまで東日本が依って護って、また安心と利益を受けてきた土着の根本の思想、感じ方」であり、それを我慢ならないと思い破壊しようとする西南の武士たちもその人理によって育まれてきたものだったと大佛は言う。


この古い道義性こそ武士たちを武士足らしめたものであった。この道義性については福沢諭吉も「瘦我慢の説」で述べていて、その精神こそが国家の根本であり、国家が危機にある時は勝ち負けではなくその精神を発揚させなければいけないと述べている。この道義性、瘦我慢の精神とは人間の歴史が始まって以来誰もが自分の住むところに愛着を持つという私情のことであり、国が成立したのもこの感情による。また平和時は目立たなくても時代の推移で必ず起こる国の栄枯盛衰の際に、国が滅びると分かっていても一縷の望みをかけて屈服せず努力するのもこの人間の自然の愛着を持つ感情だと言う。


国の成立、発展に必須のこの私情を大きく損なったのが明治維新であり、一時的な利益のために幕府は抵抗もせず千年以上育んだ私情を捨てたと福沢は述べる。勝海舟は江戸の大勢の生命や財産を護った偉人ではあっても、明治維新の際に勇気を出して抵抗することをせず、維新後にかつての敵たちの中に立ち高い地位にいることという国を成立させる精神や気概という最も重要なものを損わせた罪があるとし、それを受け入れて政府の厚遇を辞退して誠心があったことを人々に示すことが必要だと福沢は述べていた。


武士道のために箱館戦争で決死の抵抗をした榎本武揚も偉人ではあっても、戦後に明治新政府の官職に就くのは武士の人情を損う事故であり、戦争で最後まで榎本と共に戦った人や戦死した人を失望、落胆させる。政治的に死んだ榎本は戦死した人々の霊を弔い遺族を慰め、かつての指導者の失敗の責任を引き受けるという精神を示すことが必要だと福沢は述べる。勝と榎本のどちらの場合も、彼らの名誉のためだけではなく、国の独立という一国にとっての長期的な観点からそのように述べていた。福沢は公表前に勝と榎本に書簡を送り、自分の主張に間違いはないか確認し返事を貰っている。勝からは全く異存なくこのまま公表して良いとの返事もあった。(現代語私訳 福沢諭吉「瘠我慢の説」


西南戦争の事件を受けて書かれた『丁丑公論』でもこの道義性、瘦我慢の精神について述べている。西郷隆盛は武力で抵抗したものの、その精神については全く非難すべきものはないとし、この文は西郷を擁護するためではなくただ一国の公平を保護するために書くとしている。西郷を賊と呼ぶ人々は大義名分と個人の品行を混同しており、大義名分はあくまで現在の政府に対するものであり、天下の道徳品行に西郷は害を及ぼしたのではなかったとした。旧幕府を転覆させた者が国賊ではなく正義と称されるのは、有名無実と認められた政府を転覆させることは正義において妨げられないからに過ぎない。決死の覚悟で争うことが人間の勇気と称されるものであれば、勇徳はむしろ彼らによって高められるため、西郷は国家の基本たるそういう抵抗の精神を持っていたため国家の賊ではないと福沢は述べていた。(丁丑公論


福沢の意見は武士たちと同時代に生きその事件を目の当たりにした者の意見でもあるため、確実と迫真性がよりある。河井継之助など最期まで戦った武士たちの根底にあったのはこのような国の根幹を成す精神や気概であったのかもしれない。そしてそれによって発揚させた勇気は今の人から見ても優れた価値があり、それはほとんど普遍的なものとさえ思える。人々が今も武士に惹かれる理由は単に判官贔屓なのではなく、そういうところにあるのではないだろうか。それなら侍や彼らの持っていた精神を古臭い遺物とは呼べない。


西軍との交渉が決裂した継之助は、西軍との兵力差が歴然であると知りながら勝てもしない戦争に臨んだことで市民に害をもたらした面はあった。こうした点を突くのは容易だとしても、多くの人は継之助の心中を察して責めることなどできないだろうと思う。根のない者のみが容易に安全な場所から他人を非難できるものだ。恭順すれば安全が保証されるわけではないし、それは関係によっては友誼藩への裏切りになる。約束を反故にして信頼を損なうことは古今東西で最大の悪とされている。今のウクライナに対しロシアに恭順しろと言う人はほとんどいないはずだ。優劣の比較が出来ない大切な物を抱え、どちらかは必ず損失し大きな苦痛は避けられないという状況の中で積極的に一方を選択することは、道義性の面から言えば受動的であるよりはるかに重要な事であり、それは自らの選択に責任を持ちそこから逃げないと覚悟することにある。どちらかを失うならどちらが自分にとって本当に納得のいく道なのか。自分の人生を納得して生きたい人にとって侍たちの不動の精神は参考に出来るものがあるように思う。


もともと『天皇の世紀』と『峠』を読んで侍の意味と価値を知りたくなったきっかけは、この前漫画『銀魂』を読んで侍の在り方や生き様、美しさについて描いていたことに気づいたからだった。その時脳裏に浮かんだのは、十数年前オレが二十歳くらいの時に読んだ批評家の小林秀雄が河井継之助について述べた文章だった。


「歴史の動きが、よく見えて、身動きが出來なくなるほど、よく見え過ぎて、その為に歴史に取り殺されて了ふという事が、この人物には起きてゐる。といふのは、歴史の一番大事な意味が、人目には附きにくい、この人の内部で體得されてゐるといふ事である」

続き 歴史の一番大事な意味について

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