【Fate/stay night】感想 Unlimited Blade Works

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Fate/stay nightのUnlimited Blade Worksルートで気になったところだけ 

ゔぁ…ゔぁんりみてっどぶ、ぶれ…どういう話なの?

偽物の自分でもその想いは本物ではないかと主人公の士郎が気づく話です

 

 

十年近く前にFateルートをアニメで見たため、その時に原作はこのルートのみプレイしていた。その数年後にアニメ化してたのも見て楽しんでいた。それが今になって結局士郎とエミヤは何者だったのだろうと気になったため今回もう一度プレイしてみようと思った。 

結論 士郎は偽物であり本物 

正義の味方を目指す士郎は贋作、偽物、紛い物、偽善者など本編の中で散々に言われている。 

アルトリアを助ける為にバーサーカーの前に飛び出したり、イリヤを助ける為にギルガメッシュの前に飛び降りたりするなど、自分の命よりも他人の命を優先する行動が目立つ士郎に対し、アルトリアは自分の命を勘定に入れていないと言い、凜は自分と他人の命を計る秤がそもそも壊れていると言っている。そうした原因は士郎の過去にあり、もう一人の自分であるエミヤと対決していくうちに自身の欠陥を含めて自分自身を肯定していくようになっている。 

十年前の被災で体以外の全てを失った士郎は、切嗣に助けられた時に嬉しさや感謝、憧れの感情を抱いた。しかしそれは強制的に全てを奪われたために、そういう感情しか持てなかったためだったと士郎は述べている。綺礼やエミヤの言う士郎の欠陥とはそのことだった。そうして五年後に切嗣が亡くなる前に交わした約束が士郎を縛っているとエミヤは述べている。それは、切嗣がなりたかった正義の味方を士郎が代わりに叶えるというものだった。切嗣に憧れていた士郎に他に選択肢はない。士郎の切嗣に対する憧れは強制されたもののため、正義の味方になるという夢は士郎の自発的な意思によるものではなかった。欠陥の為に借り物の夢しか持てず、その正しい行いは本人の意思ではなく強迫観念によるもののため、士郎は偽物、偽善者だとエミヤは述べた。 

士郎の行動の動機の一つはそうしたものだった。だが他のルートでは、あらゆる人たちを犠牲にして一人生き残ったことを嫌悪しそれを打開するため、またその責任を追及する為に正義の味方になるしかなかったとも述べている。その場合でも士郎の行動は強制されたもので本人の意思のないことには変わらない。強迫観念と罪悪感のうち、どの動機がより大きく現れるかは、そのルートの目的によって変わると思う。もう一人の自分であるエミヤの救いを目的とする場合は、共通する正義の味方に関わる動機が重視され、アルトリアや桜の救いを目的とする場合は、自責の念や罪悪感に関わる動機がより重視されているような気がする。 

Fateルートでは罪悪感を抱きながら切嗣によって救われその思い出に守られていたように、このUBWルートでも切嗣が士郎の問題を解決する鍵の一つになっている。エミヤと剣戟をぶつけ合う中で、士郎の中で被災の時に助けてくれた切嗣のことが思い出される。災害の原因が切嗣にもあるなら、切嗣が士郎を助けたのは切嗣自身が救われたいという利己的な理由もあったのかもしれないと士郎は推測していた。そして、仮にそうだとしても地獄から助けてくれたことは事実のため十分だと士郎は考えた。“たとえそれが自己に向けられた物であったとしても、俺を救おうとする意思も、助かれと願ってくれた真摯さも本当だった”と士郎は述べる。その行動と意思に真摯さがあれば本当と言って良いなら、士郎自身が偽物でも、行動と意思に真摯さが伴う場合に限れば本物に成り得る。それがエミヤに伝わり、二人の戦いに決着がつく。葛藤を抱く一人の人物の内なる対決は、このように別の方向から光を当てられた。このルートのギルガメッシュとの戦いもエミヤとの戦いの延長に過ぎない。 

まとめ

そのため、士郎自身が偽物でもその行動と意思に真摯さが伴えば本物だと思った。士郎の考えに似ていることを哲学者の三木清も『人生論ノート』で述べている。三木は人生自体は虚無であり虚栄であり偽善だと考えていた。そうした中にあって、フィクショナルなものの実在性の証明に誠意と熱意があるかないかで偽善者かそうでないかを区別できるとした。そうしたことを創造的形成と言うらしい。持って生まれた固有の仮説の証明の追求の結果、エミヤは固有結界Unlimited Blade Worksを完成させた。エミヤ自身が偽物でも、実際にその夢を持ち続け実践していた事は紛れもない事実であり、それは偽物のエミヤゆえに生じた強迫観念でさえも当人の資質を伸ばすものになるということだった。そして死後に摩耗する前、生前の最期に到達したその時までは、エミヤも確かに本物だったのではないだろうか。そのことをエミヤは士郎との戦いで気づくことができたのだと思う。 

Fateルートでアルトリアが士郎と会うことで最初の誓いと安心感を得ることで自身の存在を肯定したように、エミヤも士郎と戦うことで後悔が消え、凜によって安心感を得て自身を肯定し答えを見出している。 

 

おまけ 凜が側にいれば士郎はエミヤにならない理由

強迫観念や罪悪感、正義の味方という役割から解放されるためではないだろうか。同一人物の士郎とエミヤの在り方は同じで、違いはその在り方の期間に差があり、エミヤは膨大な時間その在り方をしたために摩耗しその在り方を後悔するようになった。アルトリアが士郎の在り方を見ていずれ後悔すると言ったのはその意味だった。 

役割としての自分が人間としての自分を犠牲にするという表現がFateでは少なくない。魔術師の家系として生まれた凜は誕生した時から人間ではなく、魔術の後継者、伝承者という目的のために生き、死んでいく。その役割に不要なものは“心の贅肉”としてきた凜にとって、魔術師でありながらその在り方をせず、人間として育てられた士郎を最初は認められなかった。それが、後に魔術師として縛られていない自然な在り方をする士郎に凜は救われていると述べる。魔術師の役割から冷酷な選択が出来ると同時に、人間としての温厚さを失わない凜に対し、正義の味方の役割のために人間としての自分を全て犠牲にしているのが士郎だった。強迫観念や罪悪感のため自身を許せず嫌っていた士郎は幸せや楽しいという感情を持つことは分不相応だと感じていた。凜は、Fateルートの士郎がアルトリアの忘れた過去を見たように、エミヤの忘れた過去を夢で見たために、エミヤの失った全体性からエミヤを見ることが出来た。そこから、過去の被災は無作為な偶然による強制のため、士郎自身の責任ではないと凜はその過去を見て知っているため、そのことを繰り返し士郎に伝えていくことが出来る。それによって強迫観念や罪悪感が小さくなることで、士郎は正義の味方という役割と人間としての自身を同一化することから解放されるのではないだろうか。運命の縛りから解放された士郎は「世界」と契約することはない。「世界」との契約を運命の縛りの隠喩だと解釈すれば、凜がいることで解放された士郎がエミヤになることはないとオレは思った。また、エミヤが士郎の心の投影した存在でもあるのなら、士郎が救われた時点でエミヤも「世界」との契約から解放されているとも解釈できるかもしれない。 

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