自尊心て何?
「自尊心が減る、満たされる」など日常で使うこともあるこの用語の意味を知りたいと思った。それだけの意味なら、それは「他人と比べて得たり失ったりする自信」で良さそうにも思う。だが自尊心は自己肯定感とはほぼ同じ意味で使用されることもあるという。
自尊心は1892年に心理学者のウィリアム・ジェームズによって初めて概念として本格的に使用されたという。一方、自己肯定感の概念は1994年に心理臨床の専門家の高垣忠一郎によって提唱されたという。自尊心と自己肯定感がほぼ同じ意味なら、自己肯定感という概念を新しく提唱する必要はなさそうに思う。やはり両者は異なるのではないかと思った。
結論
自尊心は自己肯定感に依拠するもの
自己肯定感には
・「存在レベルで自己を肯定する安心感を持っていること」
・「誰かの役に立つ、できる、有能という実感を得ること」
の二つがある
それに依拠する自尊心も二つになり
・存在レベルの自己肯定感に依拠する自尊心は傷つかない
・機能レベルの自己肯定感に依拠する自尊心だけなら傷つく
二つの自己肯定感
存在レベルの自己肯定感
「存在レベルで自己を肯定する安心感を持っていること」という意味の「自己肯定感」は、自己の存在そのものに価値を置くことであり、「自分が自分であっても大丈夫」「ダメな自分でもエエねんで」というものだという。
「自分が自分であっても大丈夫」の「大丈夫」の意味とは、評価の「よい」ではなく、安心感に近いニュアンスで、さしさわりがない、脅かされないという意味だという。「自分が自分であっても脅かされることがない。安心して自分のままでいられる。自分が自分であることを受け容れ、許されているという感覚」
「ダメな自分でもエエねんで」とは、自分のダメなところを肯定するのではなく、ダメなところを抱えながら生きている自分を丸ごと受け容れて肯定することだという。
また、そういう自己肯定感こそが「人間の尊厳」だと高垣は述べている。
機能レベルの自己肯定感
「誰かの役に立つ、できる、有能という実感を得ること」という意味の「自己肯定感」とは、能力・特性・特徴などの人間の部分的な機能レベルによって評価されることで得られる「自己効力感」「自己有用感」のことだという。学校や会社などの競争社会で評価される自己肯定感とは主にこちらのことを言うらしい。
高垣は、どちらの自己肯定感も必要と考えている。しかし近年は機能レベルの面だけで客観的に評価する傾向に偏り、それは、そういう部分的なことでその人を丸ごと否定するような「脅し」の評価になっているという。
競争社会
今日の競争の問題は、ゲームやスポーツなど楽しみのある競争とは異なり、新自由主義、市場原理主義に基づく相手を蹴落とさないと自分が生き残れないという競争にあり、それは子どもや若者たちの「生存」や「尊厳」を破壊するため問題だという。
好きで楽しいことなら内側からやる気や意欲がわく。しかしその社会の競争の内容がその子供や若者にとって仮に嫌なことであるならば、やる気を引き出すためには「競争的自己肯定感」を必要とする。それは競争に勝つために能力・特性・特徴などの人間の部分的な機能レベルによって自分を肯定するというものであり、それは「優越感」や「自己愛」的なプライドに近いものだという。
社会で生活する人間は誰でも「自己愛」を持つ。「自己愛」は自分への執着や自惚れなど、自分を価値ある存在だと思いたがる心を言うらしい。そういう心は部分的な機能レベルの能力や特性に向けられる。しかし自分の命や全存在に向けられる「自分を愛する心」を持つ人は、「自己愛」に支配されず、生きていることへの喜びや感謝があるという。そして「自己愛」的に価値を計ろうとするのは、「自分を愛する心」を得るための土台である安心感がないためだという。それは「自分が自分であっても大丈夫」という存在レベルで自分を肯定できる安心感を持っていないということだった。高垣の提唱する「自己肯定感」とは、そういう根底の土台レベルのことであり、その必要性と、それを奪う社会への批判が込められていた。
そういう自己肯定感に依拠した自尊心を持つならば、労働環境でモノの如く扱われたとしても、それに怒りは覚えても傷はつかないと高垣は考えていた。仮に学校や労働環境で否定的な評価をされ、自尊心が傷つくことがあるのならば、それは人間の存在と部分的な機能を同一視しているためと述べている。
存在と機能を同一視する感受性が形成される背景には、優劣をつけることが出来る人間の部分的な機能でその人の全体を評価することなしには「存在」が許されないような、そういう社会の状況にあるとしている。そのように評価されるような場では、常にそれに対する不安や怖れが生じるため、評価ではなくその人の全体を認めるような関係の中でこそ、安心感と自分で自分を肯定できる力を獲得していくことができるという。
まとめ
存在レベルの自己肯定感があってこそ部分的な機能で評価されても傷のつかない自尊心を持てる。それがなく評価のみを求めて自己有用感を得ても自尊心は傷つく。二つの自尊心の違いはそこにあり、また自尊心よりも自己肯定感の方が根本的なものだと思った。
ジブリの映画で描かれているテーマの一つもそのことを言っているように思う。『思い出のマーニー』のアンナが抱えている疎外感や、『もののけ姫』のアシタカの受けた呪いや、『千と千尋の神隠し』のカオナシという存在とか
自尊心は自己肯定感に依拠するものってことはわかったけど…結局自尊心の意味って何だべ?
実ははっきりとはわかりませんでした…
自尊心、自尊感情、自負心、自己肯定感などに訳される「セルフ・エスティーム」は心理学的にジェームズ以来「自分が価値のある、尊敬されるべき、すぐれた人間である」という感情として捉えられてきたらしい。だがその概念や定義は専門家の間でも一致してなく、多くの見解があるという。それならそれを定義するのは一般人には難しいように思った。
高垣は「セルフ・エスティーム」の正しい意味を定義することよりも、それに「どのような意味をその概念にふくませることが今日の子どもの問題と深く切り結ぶうえで有効であるのか」を問題としていた。
「セルフ・エスティーム」研究の先駆者であるローゼンバーグとブランデンにとって、「セルフ・エスティーム」とは他者の比較や社会的基準に照らして自己を評価するものではなく、自分自身で設定した価値基準に照らして自分を評価するものだったという。
ブランデンの場合はさらに、「セルフ・エスティーム」とは主体的に行動し、生きる結果として育っていくものであり、他人が働きかけて操作的に高めることのできない性質のものだと考えていたという。高垣の「自分が自分であっても大丈夫」という自己肯定感もそれに近いものであるらしく、主体的に自由に感じ考え自分を肯定する感覚のことであり、評価の対象として自分を肯定するということではなかったという。子どもに対して親や養育者、教師のできることは、そのように子どもたちが生きることの出来る環境や条件を用意してあげることだけだと述べている。その環境の中に親や教師、子どもたち自身が含まれていることの必要性を述べていた。
国際比較調査から、日本の子どもたちの自己肯定感は低く、米国の子どもたちの自己肯定感は高いと指摘されている。だがそれはあくまで他者との比較や社会的基準に照らして自己を評価するものという意味の「自己肯定感」「セルフ・エスティーム」であって、高垣はその自己肯定感よりも存在レベルの自己肯定感が失われてきていることを問題にするべきと批判していた。
それが失われてきているため、子どもたちは競争原理の支配する周囲に合わせて生きていて、その原理に照らして足りない点があると自分をダメな奴と責めることになるということだった。また国民性の視点から日本人のスタイルの伝統として、謙遜して表向きによく言わないだけで自己肯定感が低いわけではないということも考えられるため、「セルフ・エスティーム」が低いから高くしなければならないという論調は一面的にすぎると述べている。逆に米国の子どもたちの問題は、現実や事実を欺いて自分を暗示的に、自己欺瞞的にとてもよいと判断する傾向にあることをブランデンは批判していたという。
国際比較調査にもそれなりに意味はあるとはいえ、統計学の便利さを妄信せず批判的に見ていくことが大事だと思った。
ただ、内閣府の「令和元年版子供・若者白書(概要版)」の日本の若者意識の調査では、諸外国と比べると自身を肯定的に捉える若者の割合が低い傾向にあるとしながらも「こうした自己肯定感の低さには自分が役に立たないと感じる自己有用感の低さが関わっている点は、諸外国の若者にはみられない日本の若者の独自性がみられる」と分析されているため、以前のただの一面的な見方からは変化してきているようにも思う。
参考文献
「私の心理臨床実践と「自己肯定感」」高垣忠一郎
「「自尊感情」ではなく「自尊心」がSelf-esteemの訳として適切な理由」仁平義明
『生きることと自己肯定感』高垣忠一郎
『競争社会に向き合う自己肯定感』高垣忠一郎
『いま人権教育を問う』八木英二・梅田修 編
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