隣人とは誰か

本や日常など

 

キリスト教の隣人愛についてです

ニンジン愛?

ちょっと黙っててくんない?

何年か前、仕事を辞めて実家にいた時のこと。一人暮らしをしていた妹の一人が実家に戻ってきたことがあった。夜遅くに隣人からドアを叩かれたり開けるよう言われたりして恐怖したからだという。妹はキリスト教に関心があり、週に一度クリスチャンから聖書について教えてもらっていたらしい。当人はその時の隣人を愛せよという会話を聞かれていたかもしれないと思っているようだった。聞かれていたかどうかの真偽はともかく、隣人愛とは何かしら強要するものでもそう呼べるのか、無条件に受け入れるならそれがどんなものでもよいのか、キリスト教を知らないオレにはわからなかった。  

知恵袋でクリスチャンの人々にそのことを尋ねてみた。宗派や個々人の違いはあれ、ほぼ常識内の対応でよいという回答が多かった。管理会社に相談である。録音などをして場合によっては警察に通報する。しかしその場合は逆恨みが怖い、結局妹は実家に戻ってきた次第だった。  

そもそも隣人愛の隣人とは誰のことを言うのだろう。何を指すのだろう。聖書を読むと、隣人愛について述べられている箇所はいくつもあれど、隣人とは誰かについて述べられている箇所は、有名な善きサマリア人のたとえがあるルカの福音書10章だけだった。  

ある律法学者がイエスに永遠の命はどのようにして得られるかを問う。イエスは律法にある二つの最大の掟、神を愛すること、隣人を愛することの実践にあると説く。律法学者はそこで隣人とは誰かを問い、イエスはサマリア人のたとえ話をする。  

あるユダヤ人が旅の途中で強盗に襲われ大怪我をする。倒れている怪我人を通りかかった祭司やレビ人は見ないフリをして行き過ぎる。そこへサマリア人が通りかかると、彼は怪我人を助け宿屋に連れて行き世話をする。宿屋の主人にも怪我人の世話を頼み、その費用を出した。  

イエスは、祭司、レビ人、サマリア人の誰がこの怪我人の隣人になったかを尋ねる。律法学者は怪我人に憐れみ深い行動をした者と答え、イエスはあなたもそのように行動しなさいと述べる。  

隣人とは誰かを問われたイエスは、隣人とは○○だというような答え方をしていない。一般的に隣人の定義は、サマリア人のように行動することとされている。 

日本で最初に聖書を研究したとされる内村鑑三もそのように考えたようだ。内村は、隣人とは必ずしも隣家に住んでいる者でもなく、必ずしも国や郷を同じにする者のことでもなく、「隣人とは、われより進んで善を成して成るもの」というのが、イエスの隣人の定義だと考えた。  

また、内村と同じく聖書を研究した黒崎幸吉は、「隣人なる固定的な範囲が客観的に定まっているのではなく、人は愛をもって他に接する時、その人との間に隣人の関係が成立する」と考えた。これも内村と同意見だろう。  

ネットで探してもそうした考えが多い中、異なる視点として参考になったのがクリスチャンのトリス氏のブログだった。  

彼はイエスの反問に着目する。それが「善きサマリア人の隣人は誰か?」だったなら一般的な解釈で良いという。サマリア人の隣人になったのは怪我人のユダヤ人。あなたもサマリア人のように行動しなさいとなる。 

しかし、イエスの反問は「この半死半生のユダヤ人に対して、誰が隣人になったのか?」だった。それはサマリア人。イエスが「あなたも同じようにせよ」と言うのは、この怪我人のユダヤ人のようにせよということに論理的になるとトリス氏は述べる。 

隣人を愛せよ、誰が隣人か。サマリア人。サマリア人を愛せよ、怪我人のユダヤ人のように。確かにそうなる。 

トリス氏は続ける「彼が善良な隣人の愛を受け入れたことから学べ、という意味ではないか。傷ついているあなた、助けを必要としているあなたを愛をもっていたわってくれる人こそ、まことの隣人なのだ。その人をこそ愛したまえ、そうすれば命が得られる」。そしてその隣人は究極的にはイエス・キリストを暗示すると彼は述べる。 

「隣人を愛せよ」から、隣人とは常に相手側のことであってこちら側のことではない。「あなたは私の隣人だ」とは言えても「私はあなたの隣人だ」とは言えない。そして愛は隣人に与えるものというより、むしろ隣人からの受け取り方が重要ということが隣人の定義になるとオレは思った。 

その考えからあの時の妹の立場になってみる。隣人から夜遅くにドアを叩かれて開けろと言われる。その行為は明らかに愛ではない。となれば受け入れる必要はないだろう。逆にこちらから愛を与えるかどうかは、本当にその人が怪我をしたりして困っているかで決めればいいだろう。知恵袋で聞いた場合と同じく、この考えでもやはり常識の範囲内の対応でよいことがわかった。 

オレの過去を振り返ってみる。去年山から自転車で降りるときに転んでしばらく立てなかったことがあった。そうして道端で座っていると、ある車が止まって男性が大丈夫かと声をかけてくれた。オレは心配してもらって申し訳ない気持ちと同時にありがたい気持ちになった。仮にこの場合に隣人の定義を持ち出すなら、隣人とは心配してくれた男性であり、その相手の親切をどのように受け取るか、その受け取り方が隣人をどのように愛するかということになる。感謝を述べてしばらく休むとオレはその人に言った。 

ここで今更気づいたのは、そもそも隣人愛の愛は、アガペーという個人を超えた宗教的感情のことだった。個人的な感謝の念からクリスチャンの隣人愛を想像したけど、それが一致しているのかどうかわからない。 

また、サマリア人のたとえで思い出したのは、米国などで施行されている「善きサマリア人の法」のことだった。それは、助けようとした行為に過失があったとしても“良識的かつ誠実性があれば責任は問われない”というもので、日本では導入されていない。最近でも女性へのAEDの使用で男性が訴えられるリスクがあるのではないかと話題になったことがあった。だがAEDに関して言えば、その使用目的は救命であるため、刑法176条の強制わいせつには該当しないので、そのことで訴えられることはまずないと弁護士の小林義和は述べている。仮に訴えるとした場合でも、立証も難しく時間と費用もかかり裁判を起こしてもまず負けて、その精神的ショックも大きいというリスクがあるため、裁判を起こすことは考えにくいという。また今まで一度もそのことで訴えるところまで行ったケースはないらしい。 

それでも今後も訴えられない可能性はないという意見もよく見かける。しかし絶対確実な安全が保障されなければ行動できないのならば、誰も生活なんて出来ないだろう。もちろん近くに助ける女性がいるならその人に任せるのがいいけど。常識の範囲内の対応でまず訴えられないなら、そこまで気にしなくてもいいのではないか。それは、問題はこの場合こちらではなくあちら側にあるからだ。隣人を真に助けるのは、助けられる側の助けられ方にあるのだから。 

そんなことよりニンジン食いてー 

参考文献 

『内村鑑三聖書注解全書第九巻ルカ伝』教文館 内村鑑三 

「黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ルカ伝」 http://kurosaki-commentary.com/kurosaki_frame.cgi?42+10+6-3-1 

「【新約聖書】善きサマリア人のたとえ:困っている人を助けなさいという訓話か?」http://mrtoris.jugem.jp/?eid=34 

「【弁護士に聞いてみた】AEDを使ってセクハラになる可能性ってありますか?」https://inoti-aed.com/aed-low1/ 

善きサマリア人の法 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)善きサマリア人の法 – Wikipedia

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