今年の春頃に見ていたアニメ。異端児という人と意思疎通できるモンスターを密猟し加虐するディックスが、その行為を阻止しようとするベルくんに対し、冒険者としてモンスターを狩って生計を立てているお前がモンスターを救おうとするのは偽善だ、と言い放つシーンがあった。
これは異端児たちと出会い、その交流を通じて生じたベルくん自身の葛藤そのものでもあった。「自分の私利私欲のために戦うのは許されるのだろうか」と。
異端児が他のモンスターと異なるのは、理性や感情や理知を備え、人の言葉を介して人間と意思疎通できるところにあった。通常のモンスターには破壊衝動しかない。見た目がモンスターであることを除けば異端児はほとんど人間と変わらない。
ディックスの問いを身近なことに置き換えてみる。動物を密猟し加虐する犯罪者がそれを責められたことに対し、お前らも生きるために動物を殺しているではないか、と言うようなものだろうか。動物を殺して食べているその口が、動物を護れだの救えだの言うのは矛盾した偽善ではないか、と。
ディックスの問いが相手の悪を摘発することで己の悪を正当化するような都合の良いすり替えにすぎないにしても、こうした人間の持つ矛盾は一つの事実としてある。どの動物を殺し、生かすかの判断は人間の側にあり、動物側にはない。野生のネコならこちらから撫でに行ったりするものの、熊が出れば駆除の対象になるなど、人間側に危害があるかどうかで基本的には判断される。
しかしベル君が異端児を助けようとする理由にも一つの強力な事実があることは疑えない。ベル君からすれば助けようとするウィーネなどの異端児は交流を通し親しい仲になった存在だった。熊にしても、その熊と親しく交流してきた人なら駆除することに逡巡する思いが生じるのは自然なはずだ。
また、ウィーネ以外の異端児を助けようとする理由にしても明瞭ではなくても何かベル君に共感するものをアニメ視聴者も抱いて見ていたのではないだろうか。牛や豚などの畜産の中に突然人語を解して感情を持つ群れが現れた場合、彼らは人間に対し自分たちの安全や権利などを主張するはずだ。そしてそういう人の言葉を解すものに対し、人間は彼らを肉として食べたいと思うだろうか。何か忌避する感覚が出るように思う。もはや彼らを他の動物のように見ることが出来なくなるのは、自分たち人間と同様のものを持つという共通性、そこに同じ人間性を見るためだろう。
しかしそうした事実、理由があること自体にはディックスの問いを解消する力はない。ディックスの意図がどうであれ、彼の問いは彼自身が思っているよりも人間存在の根底を問うものが含まれていた。ベル君が悩んだのはそちらの問題だった。
ディックスのように異端児を捉え加虐する行為に対しベル君が感じたものは、歴史上のあらゆる差別虐殺の事件に対して多くの人々が人道にもとると感じて非難してきたものと共通する。そこにある排他的な差別性という残酷なものは、しかしそれを非難する誰もが一つの側面として持たざるを得ないという事実があることをディックスは突き付ける。オメラスから逃れる事は誰にもできはしない。
こうした状況においてベル君が決断したのは、その苦しみから逃げないという覚悟だった。矛盾しているという事実がある一方で、ベル君の行動は確かに加虐されている異端児の命を実際に助ける事が出来ていた。助けられた者にとってはそれも一つの揺るぎない事実であることは疑えない。そして人に危害を加えるモンスターを助けるというその行動は、彼自身が人間社会全体から迫害されかねないリスクを負うものだった。このような状況における行動に対して人が抱く何か優れた価値が含まれているという印象は、そこに否定しがたいある真理があるためだ。そしてまた彼がそうした行動を取ることができたのは英雄に憧れた彼の心象と不分離のものであったのではないかと思う。
英雄への憧れという想いを彼は子どもみたいで恥ずかしいと思い隠そうとしてきた。しかし、何かしら理想というものを持たなくなるほうが人間として不具ではないか。「偽善者」と罵られて苦しむのは、本来的にその人がそれに相応しくないためだ。その苦痛にこそ、またその苦痛の大きさに比例して彼の良心の立派さが証明されるのかもしれない。
ディックス視点からすれば、しかしこの問いはまた別の意味合いの面もあったのだろうか。
ダイダロスの血によって自身のあらゆることが自由にならない状況において、唯一それに抗うことが出来たのは、人間同様に感情を持つ異端児を加虐することによってだった。自身の責ではない劣悪な環境によって怪物という「人間」を加虐するようになった彼は、人間の形をしながら「怪物」のような存在になっていた。何か示唆的なものがあるように思う。身近なところでも、環境のために逃れようのない苦痛を覚えている人たちは少なくない。中流層以下の排外主義者に対し、自身の苦痛のために他者に危害を加えるのは許してはならない、という考えは通用しない。彼らは今に至るまで様々な苦痛、侮辱を受け、名誉も尊厳も失われてきたと感じている。彼らが排斥する人々を救おうとする人に対し、彼らはこう思うのではないだろうか。排斥されているオレ達のことは救おうとせず見向きもしなかったのに、オレ達が自分を救うために排斥する彼らをお前らは救うというのか、それは矛盾であり偽善ではないかと。ディックスも仮にそうした想いを抱いていたのだとしたら、ベル君の行動がひどい矛盾に見えたのは当然のことだろう。
犯罪者に対しては断固たる処置をする必要があり、場合によっては極刑も正当化され、それは効果的でもある。ディックスは結局アステリオスに斃された。彼の背景は彼だけの特殊な面が大きかった。しかし社会構造の変化によってディックスのような排外主義者が増えている場合、彼らを排除抑圧すれば解決する問題ではないし、彼らに対するそうした行為こそ彼らの問いを強化、正当化することになる。彼らに反対する人々からすれば非常に厄介な問題ではあるものの、現にディックス化した人々が増え、また誰でもディックス化することが起こり得る事、またそうしたものを誰でも多少は持たざるを得ない現状、彼らの問いにどう人々は応える事が出来るのか、それが試されている時代とも言える。答えを性急に出そうとするよりも大事なことは、やはりベル君が覚悟したようにそうした問いの苦痛から逃げずに「これからも悩み、悶え、迷い、そして今日のように決断して」いくことなのかもしれない。
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