イラク人質殺害事件で思うこと
2004年の10月にあったイラク人質殺害事件はオレにとって心のどこかに常にあったものだった。イラクで香田証生を人質にしたテロリストが、日本政府に対して自衛隊の撤退を要求した。政府は身代金を払わない方針のためそれに応じず、結果香田さんは解放されずあのようになった。それにはやむを得なかった面も確かにある。
しかしオレが問題だと思うのは、世間ではそれは当然とする意見やバッシングが横行していたことだった。当時の政府関係者や各メディアは、その半年前に起こったイラクで日本人3人が武装勢力によって人質にされ、自衛隊撤退の要求にされたことから彼らの事態は彼らが招いた自己責任であり、人々に迷惑をかけるなという意見を述べていた。それが大衆による3人への非難に拍車をかけた。
だが3人の場合はまだ、激しいバッシングと同時にその人道的活動の意義から擁護する人や応援する人も少なくなかった。しかし香田さんはただの旅人、バックパッカーだったためか、彼や彼の家族をバッシングする人たちの多さに対して、擁護する人は前の事件よりも目立たなくなった。
こうした経緯から、佐藤優と片山杜秀は対談で、これを「一般市民を見捨てた国家を国民が容認した」事件と述べている。それはこうした面に限ればそのように言ってもいいのかもしれない。つまり当時の日本政府も日本国民も、テロリストに自衛隊撤退要求の人質にされた旅人の香田さんは助けるに値しない、死んで当然と見なした事件であり、民主主義、平等博愛というのは上辺ばかりの、その実優生思想が公然と共通認識された瞬間だったと。
大衆によるバッシングの背景には、9.11からアフガニスタンやイラクへの空爆など、日本人も不安や緊張に晒された時期だったことも関係している。そこで政府関係者や各メディアによってイラクで人質になった者への自己責任を言及したこと、また意図的に人質の家族がわがままに見えるような偏った報道がされたことなどからバッシングも正当化され激化した面があった。
2015年に安田純平がシリアで人質になった時は、2004年時とは異なり政府関係者も各メディアも自己責任と批判することはなかったという。イラクへの自衛隊派遣を決定し、またその能力があったのは政府であり人質ではない。選択と能力に伴う責任を持つのは政府であるということが政府やメディアにはこの時には共通して認識されていた。しかしSNS上ではまだこの言葉を誤って使用してバッシングに及んでいる人たちもいる。
国やメディアが先導して口火を切ればバッシングの勢いも激しくなる。しかしたとえ国やメディアが関与しなくても、激しい勢いではなくてもバッシングは横行する。
イラクで3人が人質になった時の官民挙げてのバッシングを諸外国は異様な目でそれを見ている。紛争地におけるジャーナリズムの意義や人道的活動の重要性は他の先進国とは違い、日本では理解が進んでいない面があった。当時の諸外国の各メディアは、自分たちならば受け入れただろう3人を日本人はまるで犯罪者のように扱ったと記している。
外交官がイラクで殺された時や、会社員が外国でテロの人質にされた時はバッシングは目立っていない。それは大衆が「仕事で行ったのだから本人には責任がない」と考えているためだろう。危険地帯に行ったのは組織による命令、決定のため、責任があるのは組織であり、当人ではないと考える。そのため単身で危険地帯に行った人たちには自己責任があるとする。だが、危険地帯に行った人は自らその責任を負うため他人がそれを非難するには当たらない。また、大衆のその考えでは死んだ外交官や人質になった会社員は無意思、無責任でそうなったと言っていることにもなる。要するに世間の考えには仕事の価値を官公庁や営利企業などで働くことに置きながら、何か事が起きれば自分は被害者で悪くなく、全ての責任は組織にあるとしてすり替えようとする狡猾さがある。バッシングもそうした自己の正当化による部分がある。
そうしたバッシングにあっても人質3人を擁護、応援する人たちも少なからずいた。それは紛争地におけるフリーのジャーナリストや非営利の人道的活動という仕事にも意義を見だしていた人たちが世間に少なからずいたためだった。だが、ただの旅人だった香田さんの時はそうした人たちも少なく、彼や彼の家族などは激しいバッシングにさらされた。つまり多くの日本人にとって仕事でなく危険地帯に行った者は助けるに値しないという風に見たことになる。ここには経済的に自立して生産活動に従事している人間に社会的価値があり、それ以外にはないとする考えがある。それは多様性の尊重を謳いながらその実一つの価値観しか重視していない現代日本の傾向であり、そういう狭隘な価値観を推し進めて豊かさを喪失した姿が、イラク人質事件で人々の不寛容な態度としてはっきりと映し出された。
80年代頃の欧米の市場保守主義による新自由主義政策を日本の中曽根政権も倣い、それはバブルの崩壊後から続く不況のなかにあっても加速し、00年代の小泉政権時には競争の激しさも一段と増していた。イラク事件が起こったのはそういう時期であり、勝ち組負け組という言葉が市民権を得た時期もそうした時期だった。そういう時期の価値観の傾向から、引きこもり、フリーター、ニート、病人、障がい者、無職などは異常な状態のため、「解決」しなければならないものと世間は見るようになる。そのため誰もが経済的生産活動に従事して自立することだけが「普通」になる。
精神科医の鈴木啓嗣は、封建制度の頃の社会のメリットとして、人々は得意不得意で生きることが可能であった点を述べている。経済活動に得意な人が仲間の生活を支え、他の仲間はそれぞれの得意なこと、芸術や学問や宗教などを行った。彼は言う、「人の本質的な行動には、食べ物やねぐらを得るための活動だけではなく、歌ったり踊ったり、祈ったり思索にふけったりなどの、現代の私たちがついつい副次的と思いこんでしまうような活動も含まれているといわなければならない。当てのない旅に出るとか、危険を知りつつ冒険する、一見無用な物事に熱中するなどといった活動についても同じことが言えるであろう」「この社会的活動の多様性によってこそ、宗教や哲学、芸術さらには歴史的な発見や発明といった私たちの生活になくてはならない重要な要素が生み出されてきた点を忘れてはならないだろう」「社会行動のあり方の多様性は、私たちの社会を豊かにしてくれる源であるといってよい。逆にそのような多様性を失ったときには、私たちの社会は閉塞し、おそらく破滅への速度を速めることになるだろう」
ニュージーランドで香田さんに英語を教えていた先生は事件後の日本人の反応を受けてこう述べている。「若者はもともと無知でバカなものでしょ。でも彼らには、年とった者にはない冒険心がある。その経験を通して成長していくもんなんですよ。それを囲りの人々や社会がとやかくいってはいけない」
安田さんは2002年に新聞社の仕事としてでなく休暇を使ってアフガニスタンとイラクに行った。それは実際に自分の眼で見たい、体験したいと考えたためだった。
下川祐治は香田さんをテレビで見たときに「彼のなかに流れている旅への思いのようなものを感じとっていた」と言う。下川さんはその想いから実際に香田さんの足跡を辿る旅をした。彼がアンマンで出会ったホテル従業員サメールは香田さんのイラク行きを止めようとした人だった。事件後に彼は下川さんにコーダホテルという名前のホテルのオーナーになる夢を語っている。当時の下川さんはサメールはオーナーという柄ではないと考えていた。しかしその後彼は夢を叶えて様々な旅人がコーダホテルに立ち寄っている。
10代の頃、オレは当時は名称不明だったIBSの腹痛や寝不足と、それが顔や体にも表れていたことで学校と家を往復する日々を送ることで精一杯だった。そうした者にとって遠くの場所へ旅に行くというのは難しく、また憧れていたことだった。
そういう時期にこの事件をテレビで見た。ネットで言われていた自己責任という言葉からは、彼に対して冷たく思いやりがない世間を肌で感じた思いだった。しかしバッシングが過ぎた後から現在までのネットのコメントを見ると、彼に寄り添った温かい言葉の方がむしろ多い。
そうした結果から見れば、激しいバッシングの中にあってもそれが世間の総意ということにはならず、むしろ多くは沈黙していたという解釈も可能かもしれない。秩序を乱されたと感じたために怒りを鎮めるために生贄を必要とする人たちに対して何か擁護や反論をしても、それは火に油を注ぐことにしかならず、勢いを増した怒りの矛先は人質やその家族に向かってしまう。そのため多くの人たちは彼らの安全やケアを優先して沈黙していた面もあったのだろうと思う。
幕末の攘夷運動が当時は主流と見なされながら結果的には開国論になり、その根底には人々の精神的な成長への熱意があったように、ヒステリックな熱狂状態にあったイラク事件でのバッシングもそれに似たところはあったのかもしれない。攘夷派だった坂本竜馬は勝海舟に諭され考えを改め、高杉晋作たちの真似をして異国の知識を持つ人を斬ったり英国公使館を燃やした伊藤俊輔も、同時にあった異国への憧れからロンドンへ留学し考えが正反対になった。彼は後に初代総理大臣にもなっている。
イラクで人質になった3人の内の1人、当時18歳だった今井紀明は、後にバッシングの手紙を送った男と実際に対話を行っている。そして対話を行う中で、男が本当に怒っていた相手は今井さんではなく「イラクから自衛隊を撤退せよ」と書いたメディアにあったということを男は悟ったという。男には今井さんと同じ年のニートの娘がいた。その後男は今井さんを応援する側になっている。
バッシングする人が皆こういうタイプの人間でこういうケースになると言っているわけではない。しかし「バッシングする人」と言う風に一纏めに片づけることもできない。だからと言って彼らを擁護するわけでもない。多数者による少数者へのバッシングは安全や尊厳を損ないかねない危険性がある。当時のバッシングは前例のない出来事によって人々の潜在的なものが暴発したやむを得ないものだったとすれば、今後もまたそうした事態が起こるたびにその行為が許させることになる。
自己責任論で思うこと
「自己責任」という言葉がどのような経緯から生じ、定着していったのかが気になった。先に書いたことと重複する部分もある。
この言葉が最初に出て来たのは、齋藤雅俊が朝日新聞のデータベースで調べたところ1984年の経済に関する記事であり、それが年を追うごとに増加傾向を見せ、最初のピークが1998年であり、自殺者、セクハラ、不登校が急増し金融機関が前年に連鎖倒産し、GNP成長率がマイナスに転じた年だったという。それを上回る最大のピークが2004年のイラク人質事件の発生後だという。
1980年代初頭は、サッチャーやレーガンなど欧米の自由市場保守主義者が社会の市場への依存を強めようという新自由主義政策を行った時期だった。市場は平等な競争下においては能力に報いるものとされ、そこで得たものは自分に値するとされた。自由と平等を価値とする市場主導の能力主義は、その否定的な面に気づかずに進んでいき、勝者も敗者も自身の現状を自分に値すると考える。それはいつしか勝者には驕りと自己愛と不安を、敗者には自信喪失と屈辱と怒りを抱かせるようになった。両者は成功も失敗も当然自分の責任と受け入れる考えを持つ。だが、ある才能の有無は運であり、ある才能を社会が評価するのは恣意的であるため、ある人の結果が全てその人の実力に帰結するとは言えない、というのがサンデルの分析だった。日本では中曾根政権がサッチャーやレーガンの政策に倣い、その後自由放任主義は加速し、小泉政権時にはイラク人質事件で自己責任という言葉が頻出し、その数年後にはリーマンショックが起こっている。
しかし、イラク人質事件におけるバッシングなど諸外国との認識の相違を見ると、日本人の自己責任観は日本人独自の性質、習慣とも切り離せないように思う。
齋藤は、ルース・ベネディクトが『菊と刀』で、日本人は伝統的な徳として自己責任を持っていると肯定的に見ている点を述べている。個人の自由を尊重する時代において、その考えは最高の平衡論の役目を果たし、それは自由の国アメリカよりも遥かに徹底していると述べた。
一方で、ベネディクトはまた日本人は外部からの圧力に弱いと指摘しているとも述べている。日本の子は八歳にもなると家族から排斥をくらうことがあり、その理由は先生が彼に落第点をつけたために家中が「家名を辱めた」と感じたため、背を向けるということがあったと言う。
日本人の自己責任の肯定的な面も、こうした外部からの圧力に弱いことの裏返しであり、それは世間という外部に日本人は弱いことを表している。
阿部謹也は、日本人は曖昧な世間を絶対視しているため、周囲との関係に基準を置き、それが日本人の行動を規定していると述べる。世間の排外的、差別的、非合理的な要素は、呪術的な「冥」の世界の名残ということだった。
世間に恥じないように日本人は努める。落第点をつけられた子に対し家族が背を向けるのはそのためであり、成人した子どもの犯罪を親が世間に謝罪するのも、そうした冥の世界が未だに人々に残っているためということになる。人々は世間に怯えると同時に、その逸脱者を許さず同調圧力を強いる。
こうした世間の起源はいつから生じたのだろう。岡本太郎の本を読んでいると、どうもそれは縄文時代の狩猟生活の次の、弥生時代の農耕生活あたりではないかという気がしてきた。岡本は、縄文時代の狩猟は呪術を前提にしており、その宗教によって社会生活が支えられていたと見る。当時の人たちが持っていた情熱やダイナミズム、神秘性や前論理的な思考はそうした基盤から生じ、そこから超自然的世界との現実的な交渉が行われていたと考えていた。そうした生活が弥生時代になって安定と均衡、節度と従順、必然と依存が意識を支配するようになり、それが現代の資本主義的生産様式まで継続していると見た。縄文人の呪術・宗教を弥生人は否定し、そうした生活基盤と意識を最善の価値としたところに世間の原型があるのではないだろうか。
それを最善とすると、縄文の価値は不要になる。しかし縄文人が交渉した神々が人間の生来の機能の一部であるなら、それを否定しても消滅せず、むしろ潜在化しかねない。
ユングは、原始の人間は適度に衝動を解放していたのに対し、文明人は普段意識によって衝動をせき止めているため、何か悪い条件が重なった時にそれまでの反動で破滅的な力として噴出すると述べていた。文明人は弥生時代以降の人間として見て良い。文明人の特徴は心の分裂であり、それは意識が一面的な方向にのみ進み、その反対勢力を含む無意識を抑圧するために、それにまた拍車をかけるという。
破滅的な表れは幕末の攘夷運動や明治の日露戦争後から昭和の第二次大戦の全体主義などに見ることが出来る。
朱子学に沈殿した水戸の影響を大きく受けた長州の攘夷は特に熱狂的だった。大佛次郎は江戸時代の長年にわたり固定化された階級制の中で武士たちの多くは卑屈になっていたと言う。攘夷志士たちの多くは若い下級武士や百姓で、黒船来航という外圧は階級制を壊すことが出来るチャンスでもあった。西周は長州の攘夷志士は自ら尊大になり他者他国を蔑視していると述べ、福沢諭吉もまた攘夷思想は単純で未熟と見ていた。長州の攘夷志士の膨大なエネルギーが歪な形で噴出した一因には、幕府に吉田松陰を殺害されたこととも関係しているかもしれない。だが攘夷思想は庶民とは無関係だった。
それが明治に日露戦争に勝利したことで、人々は攘夷志士たちのように熱狂し、自ら尊大になり他者他国を蔑視するようになった。司馬遼太郎は、昭和陸軍の原型を長州の思想やドグマに偏重した組織の在り方にあると考え、陸軍の非合理的な精神論はそうした形式主義が生み出したと見た。
第二次世界大戦も末期には軍人だけでなく一般の大衆も全体主義の様相を帯び、戦争に積極的に参加した。しかし戦争が終わると彼らの多くは自分たちの悪や罪をまるで無かったかのように戦争反対、平和主義に態度を移行した。
戦争政策遂行者たちは、自分たちの決定が現実を導いたという意識よりも、むしろ自分たちも成り行きによる犠牲者という受け身の考えを持っていた。それはまた大衆の多くの考えにも通じるものだった。
戦前、戦中、戦後の日本を実際に体験し、人々の考えの変化を目の当たりに見たうちの一人だった坂口安吾は、そうした人々の考えを『続堕落論』の中で正直に痛烈に批判している。人々は戦争をやめたいのに正直にそれが言えず、受け身のずるさから天皇を非常の処理として利用した。それは天皇を冒涜しながら盲目的に崇拝し、その偽善と狡猾を知らないということだった。彼は言う「たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!」
彼はまた、日本人の底には他人への不信、排他、耐乏の精神があるとし、それは農村文化的な精神に由来すると見ていた。それは先に見た弥生以降の生活基盤とも重なるだろう。世間の正体はそういうものであり、政治の型が人心の型でもあるなら、それは同時に日本型民主主義の正体でもある。大衆が他者を非難する際に用いる自己責任は、世間に対する責任感の強さの反映であり、それは運命に対する諦念という消極的な性格であると同時に、何か事が起きれば自分は被害者で悪でなく、善としてすり替えて自己正当化しようとする受け身で狡猾なものであり、それは自分に対する責任感の欠如の反映である。80年代の新自由主義に基づく実力主義的な自己責任という観念は、そうした弥生時代以降の世間の伝統によって醸成、強化される基盤が既に整っていた。
そういう状態から仮に抜け出すとするなら、サンデルの言うように主流派政党がこれまでの経済政策を転換すると同時に道徳的な共通善を育み大衆の名誉の分配の機会を増やすという方法の他、阿部謹也の言うように世間というものを理解し、それを絶対化せず相対化し、自分と世間との距離感を図ることが必要なように思う。絶対視するために世間は権威的ファシズム的になり、姿の見えない鵺のように捉えどころがなくなる。
だが、このような問題に対して解決を出そうとするのはそもそも難しい。前者は40年以上加速度的に増していったものであり、後者は二千年以上に渡って染みついたものであるため、その垢は容易には落とせない。今更縄文時代には戻れず、また戻ってもそれは退行にすぎない。しかし彼らから学ぶことはある。弥生時代から現代に至り、再び縄文時代が注目される現代において、そこにこそ現代を補償・補完するものがあることが直感され、無意識のうちに統合しようという動きが働いている。
坂口安吾の『続堕落論』や岡本太郎の縄文に関する本を読んで思うのは、受け身で狡猾な従来の日本人的伝統よりも、正直に欲しいものは欲しいという率直素直な生き方の方が好ましいということだった。単純に好みの問題として見ても、他人の足を引っ張り他人の不幸を喜ぶのは好きか嫌いかどうか。自分は悪ではないとごまかして善とすりかえて自己正当化しようする在り方にウンザリしないかどうか。そうした嫌な性質が確かに自分の中にあるとしても、その現実を認められるかどうか。その上でどう生きるか、生きたいかという、甚だ小さい個人的な事柄の問題がオレの前に現れていく。
参考文献
イラク人質殺害事件で思うこと
『イラク「人質」事件と自己責任論 私たちはこう動いた・こう考える』佐藤真紀/伊藤和子 編 株式会社大月書店 2004年7月
『香田証生さんはなぜ殺されたのか』下川祐治 株式会社新潮社 2005年10月
『子どものための小さな援助論』鈴木啓嗣 株式会社日本評論社 2011年6月
『戦争取材と自己責任』安田純平 藤原亮司 株式会社dZERO 2019年11月
『自己責任という暴力 コロナ禍にみる日本という国の怖さ』齋藤雅俊 株式会社未来社 2020年8月
NEWSポストセブン 香田証生氏殺害は「市民見捨てた国家を国民が容認した瞬間」
「自己責任が他人を切り捨てる言葉になっている」 今井紀明さんが危惧する日本社会の空気
自己責任論で思うこと
『「世間」とは何か』阿部謹也 株式会社講談社 1995年7月
『日本の伝統』岡本太郎 株式会社光文社 2005年5月
『天皇の世紀(4)』大佛次郎 株式会社文芸春秋 2010年4月
『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』磯田道史 株式会社NHK出版 2017年5月
『自己責任という暴力 コロナ禍にみる日本という国の怖さ』齋藤雅俊 株式会社未来社 2020年8月
『実力も運のうち』マイケル・サンデル 訳 鬼澤忍 株式会社早川書房 2021年4月
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