アニメチェンソーマンを見た感想。基本的には以前Twitterでツイートしたことと同じ。
チェンソーマン、デンジの夢がジャム塗ったパンを食べることだったり女の胸を揉むことだったりするのいいな。
一見卑俗や異質に見えても自分の欲望に正直になるという点では海賊王や火影になると変わらない。そのために命だって捨てて生きようとする点も。— alter4 (@altermyth4) October 22, 2022
オレが子どもの頃、少年漫画やアニメの主人公たちは大きな野望を持っていた。ポケットモンスターのサトシは世界一のポケモンマスターに、ワンピースのルフィは海賊王に、NARUTOのナルトは里で一番の火影になることをそれぞれ人前で口にしていた。
当時や思春期の頃は、彼らの在り方は夢や情熱を持つことの重要性のメッセージの意味合いも含まれているのだろうと漠然と思っていた。それは小学校や中学校では必ずと言っていいほど将来の夢を持つことの重要性を大人たちに問われていたことも要因としてあるだろう。学校だけではない。当時、また現在に至るまで大人たちは子どもたちに、夢や情熱を持つことの重要性を訴えているように思う。
しかし30代の今、もう一度ワンピースの初期の話を読み返すと、どうもそうではないと感じるようになった。彼らは夢や情熱を持つことの重要性を読者に示しているのではない。ただ自分の欲望に忠実なだけだ。自分は今こうしたい、こうなりたいという想いを、誰はばかることなく正直に、それも堂々と宣言している。
こうした後ろめたさもなく他者に対して自分の欲望を表すのは、大人でもなかなかできることではないように思う。むしろ、このように屈託なく明るく自分を出すということの方が、夢を持つことの重要性を訴えるよりはるかに大事ではないだろうか。将来の夢や将来やりたいことを求めても、それが不明瞭な人に対しては強制的な呪いに成り得る可能性がある。夢は持たなくてはならないものだ、そうでなくては人生の生きがいや価値などはない、そんな風に思い込ませることだってあるかもしれない。
このように人々が夢を持つことの重要性を強調するに至った経緯とは何だろうか。夢やdreamが将来の希望や理想という意味で使われるようになったのは近代以降らしい。科学の発展によって合理的になった人々の頭脳は、もはや宗教の教えを迷信以上と思うことはできなくなった。ニーチェの言うように神は死んだと同時に、それまでの生きがいや価値の拠り所も失ってしまった。残された場所は信念になる。I have a dream と言ったキング牧師の演説は有名だ。偉人たちがそうだったように、人は信念を持たねばならない。そうでなくては生きがいや価値を新しく今に蘇らせることは出来ない。おそらくそういったことが背景にあるのではないだろうか。
信念や夢を持つ事、それは仮に大事だとしても、それは今本当に必要な欲望とセットになって初めて意味がある。だが、いつしかそうした内容のことよりも、ただその形式、つまり信念や夢というものを持てさえすればそれでいいとする風潮になったのではないだろうか。そうなったのは、それがなくては偉人のように立派に生きることが出来ない。それのない人生には意味も価値もないと考えられるようになってしまったことにあるのではないか。その反動からただ夢を持つことが重要のように捉えられるようになっただけなら、夢があると口にするだけで行動を完了させるという風に、自分の今の想いに対して欺瞞になる行為にならないとも限らない。
パレスチナ問題に取り組むジャーナリストの藤原亮司さんの話にこういうのがあった。ガザ地区に住む10歳の少女は、将来のことは大人になるまで考えないと言った。それはいつ死ぬかわからないためで、朝起きて自分が生きていることが分かればその日何をしようか考えはする。しかし先のことはわからないから考えないと。
もう一つ、これは誰の話しか忘れたけど、ある国際協力ボランティアに参加した人がインフラの整っていない国にボランティアに行き面食らったという話があった。現地の国の人々は、支援に来た自分たちより非常に活発で活き活きとしていて、むしろ元気が足りないのは先進国から来た方ではないかと、その人は考えていた。
この話だけで何かを一般化しようというわけではない。しかし彼らには近代化して安定した生活をするようになった人たちが失ったモノを端的に持っていることが分かる。必要なのは夢ではない。元気に充実して生きるのに必要なのは今の欲望、エゴだ。それがない夢は弊害にしかならない。それが、生活の安定のために将来のことを計算して目的を持つことが必要になると見えづらくなるのだろうか。
先の見えない不安定な生活をしている人たちの方が充実して生きていることがあることは、チェンソーマンのデンジにも表れているように思う。借金と病気を持ち明日を生きる保証もないデンジは、食パンにジャムを塗って食べることが夢だとポチタに語りかけていた。
その後成り行きで公安のデビルハンターになったことで、普通の生活が出来るようになったことから夢を叶えたデンジはもうゴールに到着したと考えた。しかしまだ何か足りないものがあると感じたデンジは、それが従来の生活では無理だと諦めていた女とイチャイチャする夢だったことに気づく。それが自分の本気で自分のゴールだと決心を改めている。
大事なのは夢の内容ではなく、それが本当に当人にとって重要かどうか。デンジが非常に活き活きとしているのがそれを示している。普通の生活をするというかつての夢を守るためだったら命だって捨てられると言うデンジからは、現代社会の夢に対するアンチテーゼの意味合いも伺える。
アニメを見て思ったのはそういうことで、要するに従来の繊細な日本人的な考えよりも、少年漫画の彼らのような態度や考えを持つことが大切ではないかということだった。それは出来る筈だ。なぜなら彼らを創作したのは日本人であり、彼らを快く迎え入れて一緒に楽しんでいるのもまた日本人だからだ。本心では日本人は彼らの行動を痛快に感じているのであり、彼らの本当の想いもまたそういうところにこそ表れているのではないだろうか。
エゴに生きるか…?
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