YouTubeで平野啓一郎とサンデルが対談しているのを見た。人々が無意識に内面化している実力主義を乗り越える上で、サンデルは様々な職種の人の労働の価値を見出す必要があると述べたことに対し、平野は労働に限定せず、一人の人間を消費者、家族、友人など多面的に見て評価する社会の方が能力主義の弊害を弱くすることが出来ると述べた。こうした一人の人間の持つ複数の顔に注目する視点を分人というらしい。この思想がどのようなものか気になった。
要約
全体の要約
要点は、分人という発想によって個人概念による問題を解消できることになる。各章ではその問題に対して分人という文脈から具体的に捉えなおすことがされていた。
「本当の自分」の問題点
人々は個人という発想から「本当の自分/ウソの自分」というモデルを前提にして物事を考えてしまう。「本当の自分」は一つという発想から、「ウソの自分」は他人に同調して表面的に演じているイメージが生じる。しかしそれでは誰とも「本当の自分」でコミュニケーションを図れなくなるため、他者と自分を不当に貶めることになり、またそれは他者との相互作用によって自然に態度が変化するという事実を否定してしまうということが主に一章で述べられていた。こうしたアイデンティティの問題を解決する概念が分人という単位だったという。
分人とは
人々は日常で多種多様な人に対し、それぞれに適した態度、人格を自然に生じさせ、その人格を生きている。そうした様々な人格が分人であり、人間の個性は複数の分人の構成比率で決まるということが主に二章で述べられていた。一人の人間は複数の分人の集合体であり、その中心に自我や「本当の自分」は存在しないとする。どの自分も「本当の自分」と捉えることで、否定的な自分一つを本質と規定してしまう苦悩から逃れられるため、肯定的になれる自分を足場にして生きる道を考えるべきと述べられていた。三、四章ではそうした他者との相互作用における自己分析や他者経由の自己肯定についても述べられている。
社会の分断の克服
個人という単位では帰属できるコミュニティは一つになり、それがアイデンティティとなる。コミュニティによる社会の分断を克服するには複数のコミュニティの多重参加によって複数の人々の小さな結びつきを発見し融合を図ることにある。それを可能とするのが分人という単位の導入ということが五章で述べられていた。補記では封建制度の崩壊後に急務になった「個人」の思想をトクヴィルは否定的に見て、前の時代にはあった社会的な繋がりが切断され、個人は視野狭窄に陥り互いに無関心になると観察していたということが述べられている。
感想
良いと思った点
「個人」の問題と解決を整理した点
「個人」という人々が当たり前のように前提としている概念を疑い、その問題点と解決をわかりやすく整理している点が良いと思った。
様々な面の自分に価値を見出すという考えは現代の精神科医たちの本でも取り上げられることが少なくない。あとがきに「多くの人が漠然と感じているはずのことに、簡便な呼び名を与えたかった」とあるように、一人の人間が様々な面を持って生活している実感があることなど、語られる内容自体はまえがきにあるように「多くの人が既に知っていること」だ。しかしそれを分人という概念の導入によって個人概念の問題点と解決をわかりやすく整理することで、ただ一つの「本当の自分」という観念による苦悩が解消されて、他の価値基準を持つことで自分を肯定したり生きやすくしたりするという視点を提供したことは意義があると思った。
個人の尊厳は日本の世間では根付かないと社会学者の阿部謹也は言う。著者が自身の経験から分人という東洋的な単位を発想したことは、明治以降の外来語に頼りすぎずに西洋とは違うこの島の独自な道を行くヒントになるかもしれない。実際著者は分人という発想から西洋人のサンデルとは異なった実力主義の克服の視点を提供している。
アイデンティティについて
個性は誰もが持ちながら、それを職業と適切にマッチングできないために苦悩することがある。消費者として所有したりネットなどで活動したりすることで職業以外でのアイデンティティの安定の寄与になるという考えは参考になった。友人とのコミュニケーションやゲーム、一人旅、植物や動物とのふれあいなど様々な事柄との関係も分人の視点から言えばアイデンティティの安定の寄与になるのだろう。様々な自分の側面がそうした価値をもたらすという認識が広がればアイデンティティによる苦悩は少なくなるのかもしれない。
疑問に思った点
個性について
本書では個性は複数の分人の構成要素で決まるものだった。しかし個性についてはそれだけではない要素もあるのではないかという疑問を著者自身が述べている。
私は、「個人」を整数の1だとすると、分人は分数だと書いた。しかし、その分数を全部足すと1になるかどうかについては、留保をつけた表現にした。それは、社会的な分人と一人一人に向けた分人とのレイヤーの問題だけでなく、この混ざり合うという問題があるからだ
『私とは何か──「個人」から「分人」へ』平野啓一郎 株式会社講談社 2012年9月 165ページ
一人の人間が抱えている分人は、積極的に混ざり合っていった方がいいのか、それとも、きっぱりと分かれている方がいいのか
『私とは何か──「個人」から「分人」へ』平野啓一郎 株式会社講談社 2012年9月 169ページ
結論として著者は両方があり得るとし、基本的には混ざり合っていく部分が多いとする。日常の基礎的な分人が他の様々な分人に影響を及ぼすこともあれば、ある特定の分人に他の分人の影響が及ぶことを防ぎたいこともあり得ると考えている。
混ざり合った部分が、個性なのか、それとも、他とは完全に切り離された部分が個性の中心的な位置を占めていくのか。実感としてはどうなのだろうか
『私とは何か──「個人」から「分人」へ』平野啓一郎 株式会社講談社 2012年9月 170ページ
このように個性とは何かという問題は分人の文脈から見ても疑問が残されたことになる。個性とは何だろうか。
著者はユングのペルソナ概念を批判した。しかし分人思想とユングの思想には共通点がある。分人思想は人格の全てを本当の自分と肯定することで、自分の本質を一つと規定することから離れるものだった。ユングの思想はペルソナ、またそれによって生じるアニマを自分ではないと否定することで、自分をそれらと同一化せず区別し離れるものだった。一見反対の方法でありながら、結果的にはどちらも過度な思い上がりや卑屈を防ぎ、自身をコントロールしやすくする効果がある。
また、その方法の違いは「本当の自分」というものについての考えが前提として違うことにも由来する。
分人思想では「本当の自分」とは複数の分人のすべてのこととされた。著者が批判した「本当の自分」とは、個人という単位のために「どこかに中心となる「自我」が存在しているかのように考え」られたり、表面的な自分の「奥に存在しているのだと理解」されたりするものだった。
これは現代日本の通念としての「本当の自分」批判としては正しい。しかしユングのいう「本来の個性」「無意識的な自己」を仮に「本当の自分」とするなら、それは世間の通念には当てはまらない。
ユングにとって「どこかに中心となる」のは自我ではなく自己だった。自分の中心は認識不可能な無意識的な概念であって、意識する自分、自我ではないとしている。また、それは常に存在しているため自分の「奥に存在している」ものとは必ずしもしていない。そのためユングはペルソナの選択自体にもすでに個性的なものがあると述べている。
個性化が必要な理由は、人は個性化していないと自身と不一致な状態になり「屈辱的で、不自由で、非論理的な状態に置かれて」行動に責任が取れないためとユングは述べている。それはペルソナやアニマといった集合的なものを意識化していないために他の個人と無意識に混ざり合うためにそうなるという。そこから脱するために集合的なものを意識化して自分から距離を置いた客体とすることが必要とされた。
この状態から脱するには、まずこれこそ自分だと感じられるようになり、そのように行動できるようにならねばならない。そうなるとき人間は、はじめのうち茫漠とした、頼りない感情を抱くであろう。だが前に向かって発展していくにつれて、しだいに強くなり、明晰になる思いがするはずである。自分のありようや行為について、「これが私だ。私がこうするのだ」と言えるなら、たとえそれが難路であっても、安んじてその道を行けばよく、たとえその道に逆らったとしても、責任を取ることができる。自分自身より耐えがたいものはないという事実は、もとより認めなければならない。(「おまえは最も重い荷を求め、おまえ自身を見出した。」ニーチェ)。しかしこの最もむずかしい仕事もまた、おのれを無意識内容から区別することさえできれば可能になる。内向型の人間ならこの内容を自分の中に見出すだろうし、外向型ならば投影の形で外の人間に見出すだろう
『自我と無意識』C.G.ユング 松代洋一/渡辺学 訳 株式会社第三文明社 1996年2月 181-182ページ
「これが私だ。私がこうするのだ」という他者に操られずに責任の取れる行動が出来る自分は無意識内容からの区別によって発見され得るとする。こうした「本来の個性」の獲得を仮に「本当の自分」としても良いだろうとオレは思っていた。しかし分人思想で明らかにされたように、アイデンティティの混乱の原因にしかならない「本当の自分」などという観念は現代では使用しないほうがいいのだろう。
しかしそれでも、こうした「本来の個性」の獲得は現代でも必要ではないだろうか。そしてそれは複数の分人の構成要素によって個性は決まるという分人の発想では、そのままでは難しいように思う。分人思想ではどの分人も「本当の自分」とする。しかし個性についてはそうではなかった。分人が混ざり合った部分か、それとも他とは切り離された部分が個性の中心的な位置を占めていくのか。それは個人や分人という社会的な単位の発想だけでなく、生物としての個体という発想ともおそらく関わっていく。個性は社会生活をする人間だけが持つ特権ではなく、あらゆる生物が持つ。著者が「あらゆる人格を最後に統合しているのが、たった一つしかない顔」と述べているように、様々な人格は一つの身体による。また同様に、様々な人格は一つの意識にもよる。デカルトのわれ思うゆえにわれ在りは今でも疑えない。
分人ごとに自然に態度が変わる事実はある。しかし同時に、誰と会っても変えたくないと思う部分も人は持つのではないだろうか。それはその人の芯とも言える場所のことだ。それは個人だから持つというより、一つの身体、一つの意識を持つ個体だから持つ。
ユングは内界と外界という二つの世界に挟まれて存在している「何ものか」、心の構造の中心に位置して私たちに働きかけている、私たちと違いながら私たち自身であるそれを「自己」と呼んだ。それはまた「内界と外界の間の葛藤に対する一種の補償」とも述べている。
自己は、一つの結果、達成された目標といった性格をもっているからだ。一歩一歩成就してゆくほかなく、多くの艱難を経てはじめて経験できるようになるものといった特徴を持っているからである。したがってまた、自己は生の目標でもある。それは、ひとが個体とよんでいる運命共同体の全き表現であり、さらに個々の人間のみか一人一人の人間が相補い合いつつ一つの全体像を形づくっているその集団全体の、いとも完璧な表現だからである。
自己がなにか不合理なもの、定義不可能なものであって、自我はそれに敵対するわけでも隷属しているわけでもなく、それに依存しつつ、ちょうど太陽の周りを回る地球のように、その周りを回っているのだ、と感じられたとき、個性化の目標は達せられたことになる
『自我と無意識』C.G.ユング 松代洋一/渡辺学 訳 株式会社第三文明社 1996年2月 204-205ページ
ユングの議論を難解だとするのは、ユングの議論の根底にある経験があまり知られていないためらしい。ユングと同様な経験のある人には明瞭なのかもしれない。また、ペルソナやアニマといった概念はやはり西洋的な発想のため、それが東洋人には馴染みがないのも理由にあるかもしれない。しかし経験がなくとも民族は違っても心の構造、自己は普遍のため、どこかに感じられる部分はあるに違いない。また、ユングの個性化で重視されたのはプロセスであるため、自己が体験され、態度や人格の変化が生じることがあっても、それで個性化の道は終わることはなく不断に集合的なものと分離し続ける道を行くことだった。つまり自分は完成されず規定されないことになる。
ユングの自己と自我の関係に似ていることを心理学とは違うフィールドから述べている日本人に星野道夫や宮崎駿がいる。どちらも外界の自然を尊重して残すことが内なる自然を残すことになり、それが人間の根源となると考えていた。彼らにとって自己とは自然ということになる。自分や人間よりも自然や動物たちの方がこの世界の中心ではないかという思想を、アラスカやカナダの先住民や縄文時代のアニミズムなどから彼らは学んでいた。また、文芸批評家の小林秀雄も「信ずることと知ること」という講演の中で、柳田國男の『山の人生』に触れてそれに関連することを話している。自然の中で生活をしていた山びと達は、言葉にならぬ自然という実在に対し真剣な努力を重ねざるを得なかった。彼らが目の当たりにする山の霊や神は、そうした彼らの生活経験の充実した内面性の事実であり、そうした彼らの長年の本能化した智慧が、人生の意味や価値を生み出す力となったという話だった。
大事なことは自然と断絶しないようにするということだろう。意識としての自分である自我が自己と取って代わることが出来ると思い上がると無意識的なものに憑依されるように、自然を征服したり、また自然を人間よりも下で科学でコントロールできると思ったりすると、自我は自然と取って代わることが出来ると思い上がる。世界の中心に位置するのは自然ではなく人間だと思うようになった現代人は当然無意識のうちに復讐を受ける。その端的な症例を「黒子のバスケ」脅迫事件の渡邊博史の意見に見る。幼少期に家庭での被虐と小学校でのいじめによって根底の安心を壊された経験を持つ彼は、現代日本の普通の人たちの多くが抱える正体不明な生きづらさの原因を、無意識に抱える対人恐怖、対社会恐怖に由来すると見た。これは宮崎の言うようにこの島に住む人が根源を失ったことによるためだろう。
著者は補記で、個人概念は一神教のキリスト教と切り離せず、近代以前から重視されており、それが単位として確立されたのが近代以降と述べていた。しかし近代以前から自然と向き合ってきたこの島の人々や、個性化過程を未開人の通過儀礼にも類似を見たユングのように、それらは必ずしも西洋の個人概念を前提としていない。「これが私だ。私がこうするのだ」として自分の人生に意味や価値を与えていくことが出来るようになることを目指す個性化は、もしかしたら分人思想からすればありもしない「本当の自分」だとして切り捨てられるかもしれない。だが、それも「自分の理想に対する分人」として肯定することは可能ではないだろうか。変な話になるけど「本当の自分」を目指す自分もまた「本当の自分」になるのではないか。それだけを「本当の自分」とすると他の分人が「ウソの自分」となってしまうのでマズイとするなら、それを「本当の自分」ではなく「理想の自分」として肯定するのがいいように思う。こうした作物を育てて実が出るのを祈るような個性の信仰は、分人思想の個性の考えとは必ずしも対立せず、むしろ個性について具体的に考える上での補足になるのではないだろうか。全ての分人を肯定するのが分人思想なら、オレとしてはそう思う。そして分人思想もその方法から結果的にはそうした個性化につながりやすい面がある。
個性化のためにする事はそのための環境を整えることであるため、ユングは無意識の内容と自身の同一化を防ぎ、相対化してそれらとの距離を測り自分の位置を見定めた。これは分人思想でも変わらない。著者はハイデガー・フォーラムでの講演録ではこのように述べている。
何か大きな政治的なムーブメントに巻き込まれそうになったときに、そこから距離を置いて、どういうふうに自分として生きて行くのかを考えたときに、僕は本来性と非本来性という二項対立的な発想ではなくて、やっぱり人間が複数のことに分化して、それぞれに多重帰属していて、社会の一部に巻き込まれている自分を、常に相対化して批判的に見ることができるということが重要なのではないかと考えます。
決して何かひとつの大きな権力構造の中に飲み込まれてしまって自分を失うということにはならずに、「どこどこの会社に帰属している時にはこういう自分だけど、別な人と付き合ってる時はこうで」というようなことを自覚し、その分人の構成と比率をコントロールする自由を維持する、ということが重要なのではないでしょうか。
『存在と時間』と分人主義───ハイデガー・フォーラムでの講演録
分人思想もユング思想も、それ自体は一つのツールに過ぎないため、それを使用する人々が自身の性格や相性、その時々の問題に応じて使い分ければいいのだろう。
また、被虐やパワハラ、いじめなど当人が耐えがたい状態にあるときにも他者経由の自己肯定、自己愛は有効だ。しかしそれには限界もあるように思う。自分を好きになれない分人の場合、その相手と距離を置く。それはまず必要だとしても、仮に相手が障害などで完全な落ち度がない場合でも当人が不快に思ったままなら、それを理解することを妨げられるのではないだろうか。
そんな風に個人的に気になる点はあったけど「本当の自分」という観念で悩んでいる若い人は全員読んで良い本だと思った。また分人思想は東洋的な発想のため、実感としてわかりやすくすぐに実践できるメリットがある。
参考文献
『私とは何か──「個人」から「分人」へ』平野啓一郎
『自我と無意識』C.G.ユング 松代洋一/渡辺学 訳
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