少女終末旅行って何?
チトとユーリという二人の少女がいちゃいちゃしながら終末世界を旅する話です
いちゃいちゃするのかよ///
うそです。いちゃいちゃまではしません。たぶん…
アニメ放送当時は最初は普通に見て、二度目はニコニコ動画でコメントと一緒に見るのが楽しかった。
結論
少女終末旅行とは
目的のない人生においても幸せを信じることが大事とする物語
だと思った。
作中には様々な幸せの形が描かれている。それは極寒の中で偶然にも配管の中のお湯を発見しお風呂に入れたことだったり、偶然手に入れた魚が美味しかったことだったり、ふと見た景色の奇麗さに心を動かされることだったり、危機的状況を回避できた時の安堵感だったり、誰かと心を通わすことだったり、物事に触れて感じ入ることだったり、頂上を目指す過程で得た達成感だったりする。他にもオレには知りえない幸福もたくさんあるだろう。
しかし思ったのは、そうした日常の中で感じる幸福よりももっと大きな意味での幸福がこの作品には描かれているように感じたことだった。それは人生における意味や価値などを形作るような、もっと根底的なものとしてということだった。コミックス最終巻のあとがきにはこう書いてある
「この世界はあまりに巨大で複雑なので、色んなものが不明のまま過ぎ去ってゆきます。ただどんな時でも、生きる喜びが消え去ってしまうことはないとチトとユーリは信じていた」
この信じるということが根底にあって、二人のあのようなラストシーンが可能であったのではないかと思う。滅亡するしかない世界にあって、明日の食糧も無くなっていく中にあってもあのようなラストが可能だったことから、どんな時や状況でも幸福でいられる可能性はあることがこの物語では描かれていたように思う。そしてそれを象徴するものも登場していると思った。寺院にある神の石像や廃墟都市のあちこちにある小さな石像がそれだ。
神の石像について
寺院にある大きな神の像は、死後の世界を明るく照らす役割を人々に託されていた。その内容や寺院の装飾からして神というよりむしろ仏教的な意味合いが大きい。街に無数にある小さな石像の作られた理由も同じであるかどうかはわからない。大きさからしたら寺院の神は人工知能を模していて、街にある石像はエリンギの浄化機能を見た人々によって作られた可能性もある。寺院の神の像を作った理由は人々が安心したかったためとチトは想像していた。小さな像に託された願いにもそれと共通するところはあるかもしれない。現代では神を信じることなど誰もしない。しかしあまりに巨大で複雑な世界にあっても幸福ではありたいとは誰もが望むことだろう。色んなものが過ぎ去ってしまう中、過ぎ去らないものを望むのは人間に備わっている機能のため、作中の神の像もその表れであるように思った。
目的のない旅
チトとユーリは生き残る可能性がより大きいことから都市の頂上を目指すという道を選んだ。それは、その他には目的もないというのも理由にあった。途中でそうした道とは反対に、自分のやりたいことをやるという目的を持っている人たちもいた。一見対照的に見える両者にも実は共通している点がある。それはどちらも生きる喜びを信じていたことだったように思う。飛行に失敗したイシイは生きがいを失いながらも満足した表情をしていた。絶望と仲良くなれたのも達成感からの満足だけではないだろう。チトとユーリの旅の縮図をここに見ることもできるかもしれない
生きることが最高だった理由
目的がないのに行動せざるを得ないことについて、チトが広大な図書館でこのように述べているシーンがある。
「…私ね 全部同じじゃないかと思うんだ…」
「地図を作ったり… 飛行機を作ったり… 機械たちがこの都市を維持しようとするのも… 私たちが一番上を目指すのも 人がこんなに大きな都市を作ろうとしたのも…」
「いつかすべて終わると知っていても何かをせずにはいられない……そういう何かしたいって気持ちの源みたいなものが心の中心にあって それが全部つながっているような…」
全ての生物や自然、宇宙の背後にある目的のない衝動。ショーペンハウアーはそれを「生きようとする意志」と呼んだという。チトとユーリが最初にその場所で拾った本はショーペンハウアーを連想させる本だったため、全く関連のないことではないだろう。
ショーペンハウアーは「生きようとする意志」を消し去り、無意志に至るのを最善と考えたという。自我を滅却することで苦しみから解放され、内面は至福に満たされ、死はもはや恐怖ではなく待ち望んでいた救済として歓迎され、幸福の内に死んでいくことが出来るという。原始仏教でもブッダは苦しみの根本原因は執着や欲の生じる我の観念にあり、それを消して涅槃に至る必要を説いたという。
チトとユーリが何もかも失って暗闇の中で最後の階段を昇っていくときに感じたことは、あらゆるもの、世界の全てとつながる原初的な一体感だった。しかしそうした境地に至りながらも二人の出した結論はショーペンハウアーとは真逆だった。ショーペンハウアーの結論はこの世界は最悪であるため私たちは存在しないほうがよかったというものだった。それに対してチトとユーリは、最悪の世界にあって生きるのは最高だったと結論している。それが可能だった理由が、二人が生きる喜びは失われないとを信じていたことにあるのではないだろうか。それを信じながら頂上を目指す過程の一つ一つを二人は歩んでいった。
まとめ
滅亡するしかない世界にあって二人の示した生き方は、いずれ必ず死を迎える人間にとっての幸福の在り方を教えてくれているような気がした。福田恒存は『私の幸福論』の中で、大いなるものを欲することが幸福の根源であり、それを信じるからこそ不幸でも幸福でいられる、敗北しても悔いのない生き方が出来ると述べている。この考えはこの作品にも表れているように思った。それは神の石像という形で象徴的に表れていた。また二人が互いに信頼していたことにもそれは大きく表れている。チトとユーリはどちらか一方が欠けていたら物質的にも精神的にもとっくに生きていけなかったのではないだろうか。そういうことを考えたため、この作品の大きなテーマは信じることだと思った。
疑問
この世界の人々が滅亡した理由ってなに?幸福を願っても回避できなかったの?
なんだろ…。回避できなくなる前に信じていたものが原因にある気がする。
他サイトによると、科学の発展を極めた時代に取り返しのつかない戦争が起こり、人類の衰退が始まったらしい。残った人類は前代の残した遺物を基盤に生活していたという。人工知能が作られ、神とされていたのは科学の発展していた前代になるだろう。人工知能の役割は機械と人間との仲立ちをし、双方の価値を安定した方向に導くことだった。400年前に建てられた寺院の神の役割は死後の世界を明るく照らすことだった。寺院の神の象は衰退の始まった人類が作ったものだろう。寺院の神の形が人工知能に似ている理由も、後代の人類が前代の神の形を参考にしたからではないだろうか。
AIを神をとしたのも戦争の道を選択したのも前代の人類だった。AIを神としたのは、量子力学などを始めとする科学の進歩により、未来は今よりも良くなる、便利になるという考えが大きな価値を持っていたことにあるのではないだろうか。もちろんそれは悪いことではなく、むしろ部分的には良いことだろう。しかしそれだけを最上の価値とすると過去のことは顧みられなくなる傾向もある。人類は過去を顧みずに未来の理想へ突き進めば進むほど勢いを増していき、ついには人類衰退へと繋がる戦争が始まったのではないだろうか。それはその道を進めば避けようのないことであっただろう。チトとユーリのおじいさんはこう言っている
「人間は忘れる生き物だが・・・そのために知識の積み重ねがあるというのにそれでも繰り返してしまうんだろうか・・・」
AIに課せられた神とは、人々が過去の慣習や経験を全て無駄として省き、より優れた新しい方向に行くことだけを望んだことの象徴であったように思う。それを幸福と信じていた人類は滅亡を回避することができなかったのではないか。それはチトとユーリの信じていた幸福とは全くの別物だったろうとオレは思う
エコな考え乙w
参考文献
『私の幸福論』福田恒存
『生まれてこないほうが良かったのか?』森岡正博
「少女終末旅行 考察」https://sites.google.com/view/clementis-shojoshumatu/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0?authuser=0
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