Fate/stay nightのアーチャーの心象風景にある歯車の意味について探ってみたい
オレたちは社会の歯車なんだよ…身体は歯車で出来ている…
でもそれも当たってそう
歯車についてstay nightで言及しているのは一箇所だけで、他サイトでも言及している人は少なかった。ここでは同じように関心のある少数の人と共有したいと思った。またstay nightのネタバレを含むのでご注意をば。
歯車についての四つの説
歯車の意味について四つの説を考えた。
①アーチャーの正体についてのヒント 【メタ的な意味】
②自身の理想の摩耗と本心の抑圧など 【消極的な意味】
③理想を貫いた誇り、意志の強さなど 【積極的な意味】
④全体性、自己の象徴など 【象徴的な意味】
①アーチャーの正体についてのヒント 【メタ的な意味】
アーチャーもといエミヤの正体についてのプレイヤーに対する製作者側からのヒントではないかと思った。
原作でエミヤが固有結界を士郎たちに見せるシーンは、キャスターを倒した後に教会の地下で一度使用した時だけで、士郎たちはその正体に感づいていながら、まだプレイヤーにはその正体がはっきりとは明かされていない時だった。その時に士郎は初めて見る知らないはずのその魔術を自分ならば理解できると述べており、このシーンに至るまでに幾度か描かれてきたことと同様に、このシーンも両者が同一人物であることの一つの示唆であるように思った。また、エミヤの風景の歯車について言及されているのはstay nightでは唯一この場面だけだった。
“それは、一言でいうなら製鉄所だった。燃えさかる炎と、空間に回る歯車。一面の荒野には、担い手のない剣が延々と続いている”
“無限とも言える武具の投影。夥しいまでの武器は、それだけで廃棄場じみている。その、瓦礫の王国の中心に、赤い騎士は君臨していた”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
エミヤの心象風景 『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
ここでは歯車は廃棄場の中にある製鉄所を表している。士郎は以前エミヤの宝具は武器を収納した蔵だと推測していた。それは複製した武器を貯蔵するという点では当たっていた。そしてそれに類似する士郎の土蔵の話がプロローグの時にも言及されている。
“この土蔵は庭の隅に建てられた、見ての通り、ガラクタを押し込んでいる倉庫である。といっても、子供の頃から物いじりが好きだった自分にとって、ここは宝の倉そのものだ”
“衛宮士郎にとっては、この場所こそが自分の部屋と言えるかもしれない”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
その土蔵には中身のない複製品が転がっていたと凜が言及している。そうして士郎の投影魔術は材料を全部内界から出してきてると言う。瓦礫の王国のエミヤとガラクタや複製品に囲まれた士郎の類似などから、製作者側がプレイヤーに対して与えたエミヤの正体についての示唆、ヒントが固有結界の風景だったのではないかと思った。
炎と歯車を製鉄所としたのは、それがエミヤ自身を表すためだろうか。炎は剣と同じく意志の強さを表し、それは技量の鍛錬や、初志貫徹を意味するのかもしれない。歯車は、他者に都合のいい機械のような存在だったエミヤを表す、そのまま機械的、工業的モチーフとしての意味だろうか。それだと炎は積極的な意味で歯車は消極的な意味になる。炎を消極的に見るなら、それは士郎の原点の火災が癒えることのないことを表しているのかもしれない。尤もそれを認め壊れた自分を肯定したからこそ凜が言ったように魔術師としての最高の素質を持つことが出来て、それを活用できるようになったのもあるだろう。
また、歯車は機械と回転から繰り返す時間として時計を暗示することがある。時間遡行するアニメ作品ではよくモチーフとして時計や歯車が現れている。エミヤの場合も同様なら、その正体についてのヒントとなっているのかもしれない。他の英霊が機械とは縁のない過去の歴史、神話の時代から来ていることに対し、エミヤが機械の象徴の歯車を背景に持つのは、彼が唯一機械と関わる近現代や未来から来ているというヒントの意味もあったのではないだろうか。
今でこそメディア展開によってサーヴァントたちの真名は既知とされていることも少なくないように思う。しかし原作発売時の製作者たちは、おそらく如何にプレイヤーたちにストーリーの進展具合に応じて適切なヒントを与えて、大体このぐらいの頃には自ずから正体に気づけるようにしようと意図、計算したのではないかと推測する。HFルートの終盤で、聖杯戦争の真相に気づいていたかとイリヤが士郎たちに問いかける時に、士郎が答える前にプレイヤーが理解していたかどうかが製作者とプレイヤーの勝敗を分けたようなものかもしれない。オレはその時答えられなかったので悔しい思いをした。
少し脱線した気がする。要するに歯車はエミヤの正体についてのヒントとして与えられたうちの一つではないかと思った。
②自身の理想の磨耗と本心の抑圧など 【消極的な意味】
空間に歯車が浮かぶエミヤの固有結界とは、彼の心象風景のことだった。
“魔術師の心象風景──心のあり方そのものを形として、現実を塗りつぶす結界を固有結界と呼ぶ”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
エミヤ自身もサーヴァントのあり方について述べている箇所がある。
「サーヴァントというのは霊体だ。その在り方は怨念、妄執に近い。故に同じ“無念”には敏感なのさ」
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
作中のエミヤは現実は変わらないと諦め、冷笑的になり、自身の存在を否定し、かつての在り方を後悔していた。こういう気持ちの表現が固有結界という心象風景として現れていたかもしれない。
“息を呑むセイバー。彼女は呆然と、荒野に連なる墓標を見つめる。その、荒れ地と鉄しかない、人の住まぬ灰の空を”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
士郎と凜が夢で見たその風景もそれと同じで、「人の住まぬ」が「無機質で」に言い換えられているくらいの違いがあるだけだった。士郎が後に発動する固有結界では、それは「生き物のいない」となっている。士郎の固有結界には「灰の空」と「歯車」が見当たらないため、その二つ、あるいはどちらか一つがエミヤと士郎の在り方の違いを表しているように思う。
歯車に関してはこの時点ではエミヤの在り方を表しているかどうかは不明だ。しかし「灰の空」は希望が無くて憂鬱な様子などのネガティブな意味合いを持つことは疑えない。そしてそれはまさしくエミヤの心の状態を表している。自己に向けた暗示であるエミヤの詠唱もその想いを表しているかもしれない。特にこの箇所がそうだ。
故に、生涯に意味はなく。
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
Twitterで@Suzanyaさんが英語と日本語を同時に見ることで理解がより深まると提唱していて、とても参考になった。するとこうなるらしい。
もう、この両手で何かを掴むことはない、故に生涯に意味はなく
「UBW詠唱の英語部分と日本語訳は同時に読むものであるという考察 」- Togetterより
エミヤの抱く絶望感、閉塞感が伝わってくるようだ。またアインツベルンの城でエミヤは自身と士郎に対してこのように言う。
「生涯下らぬ理想に囚われ、自らの意思を持たなかった紛い物」
「そんなモノに生きる価値はない。何よりこのオレが確信しているのだ。衛宮士郎という男の人生に価値などない」
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
それに対して士郎はこのように思っている。
“エミヤの言葉はエミヤを傷つける。それを承知で、おまえは俺を殺す事を望んだ。長い繰り返しの果てに、そんな事しか望めなくなった”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
ここでの“長い繰り返し”とは、世界との契約により死後も人々を守る存在として永久的に使役され続けることを表す。しかし実際は世の中の秩序維持の為に善悪問わずそれに邪魔な人間を排除する存在として使役され続けるということだった。人々を守るという目的、それも強制されたものでありながら、それだけが自身が存在することを許された唯一の在り方であり、それすら生前のみならず死後の世界でまでも叶わなかったという挫折。そこから「もう、この両手で何かを掴むことはない」故に、生涯に意味はないという心境に至ったのではないだろうか。彼の「灰の空」は、そのように人生の意味を失ったネガティブな感情を表しているように思う。これと対照的なのが士郎の詠唱のこの箇所になる。
I have no regrets.This is the only path.
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
英語の和訳を合わせるとこうなるらしい。
後悔はない、これが俺の道だから、我が生涯に意味は不要ず
「UBW詠唱の英語部分と日本語訳は同時に読むものであるという考察 」- Togetterより
先ほどの士郎の思い“エミヤの言葉はエミヤを傷つける。それを承知で、おまえは俺を殺す事を望んだ。長い繰り返しの果てに、そんな事しか望めなくなった”の後はこのように続く。
“なら、おまえが俺を否定するように、俺も死力を尽くして、おまえという自分を打ち負かす”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
単純に比較すれば、自己否定的なエミヤと、自己肯定的な士郎と見ることが出来る。しかし士郎の場合はただの自己肯定ではなく、自分は人生の意味など最初から求めないとするものだった。士郎が自身に打ち克とうとする信念、燃料は詠唱のこの英語の箇所にある。
Unaware of loss.Nor aware of gain.
無謀にも失うことに目をくれず、ただ一度の敗走もなく
( 失った事にも気づかず )
ついに得たものにすら気づかず、ただ一度の勝利もなく「UBW詠唱の英語部分と日本語訳は同時に読むものであるという考察 」- Togetterより
その意味は士郎がエミヤと剣戟を撃ち合いながら思っている箇所に表れていると思う。
“得てきた物より、落とした物の方が多い時間だった。だからこそ。その、落としてきた物の為にも、衛宮士郎は退けない”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
士郎の根底にあるのは被災した時に自分以外の全てを犠牲にして一人生き延びたため、自分が存在するのは許されていないという思いだった。
“十年も前の話、燃え爛れる街の中で、ただ一人生き残れた責任を追い続けた”
“忘れた事など一度もなかった。俺は生き残った代償に、もう二度と、こんな光景を起こさせないと”
“そう自分に誓って、切嗣のような正義の味方になると決めた。衛宮士郎の年月はその為だけにあった。救われなかった人たちに胸を張れるように使われ続け、それを代償として、ここまでやってこれた筈だ”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
士郎の根底にあるのは犠牲になった死者たちに対する責任感にある。彼の心象風景もエミヤと根底的には同じだ。
“荒涼とした世界。生き物のいない、剣だけが眠る墓場”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
士郎の心象風景 『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
この無数に広がる剣が墓標に例えられているのも、士郎が犠牲にしたと思っている人々を表しているのかもしれない。士郎の時点でこれらを背負い、その道を生涯貫き、また死後も強制されて一度も報われないとしたら、「灰の空」にもなってもおかしくはないように思った。
士郎の固有結界には「灰の空」はなく、おそらく「歯車」もない。おそらくと言ったのは、ラストエピソードの士郎の晩年の心象風景には「灰の空」はなくとも「歯車」は遥か上空にあるからだ。これは一見すると剣の連なる荒野だけに見える。しかしスクロールすると巨大な歯車が浮かんでいることがわかる。
晩年の士郎の風景。荒野に剣が連なる 『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
上にスクロールすると巨大な歯車が浮かんでいる『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
その晩年の士郎のモノローグにはこのようにある。
“あらゆるものは磨耗していく。何かを見るたびに色あせていく。故に、ある事柄を苦しいと思わなかった心も、何年かの繰り返しの末に気づくだろう。おまえの行為には意味があっても。おまえ自体は、最後まで無価値だと。希望と失望は抱き合わせで現れる。気高い理想はくたびれた義務になり、ついには薄汚れた執着に変わり果てる”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
“何年かの繰り返し”は、エミヤの“長い繰り返し”を思わせる。エミヤの場合はその果てに挫折し、絶望、閉塞感を抱いた。対して晩年のこの士郎はそこまでは抱いてなく、その理想を貫くため無価値や失望を気にしないようしていき、代わりに楽しみも減ったものの、たまに見返りがあれば十分と述べている。これらは一言で言えば初志貫徹の難しさを表していると言えるだろう。その困難さから本心を抑圧していくこともある。
“鉄の心はブリキの証。これなら長い旅も続けていける”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
目的達成の為に心を鉄にする道はまた、切嗣やアルトリア、エミヤが葛藤に動じず、意志で私情を捨ててきた道にも通じる。彼らの場合は戦争などで人殺しを行うことがやむを得なかったため、同時にそれに強く苛まされることになった。しかしラストエピソードの士郎はそこまでは強制されなかったようだ。彼の風景は「灰の空」ではない。エミヤとの違いは絶望しているか、後悔しているかなどにあるかもしれない。そして共通しているのは初志貫徹の困難さから自身の理想が磨耗していること、心の感じる苦しみや葛藤などを抑圧していることにあるといえるだろう。
そのため、「歯車」の意味とは自身の理想が磨耗していること、本心を抑圧していることだと思う。
また、士郎もエミヤも共に災害の犠牲者に対する責任感から自身を機械として人々に使われ続ける道を行ってきた。その在り方以外で存在することが許されないという思いも、その磨耗と抑圧に拍車をかけているところもあるのかもしれない。
エミヤの「灰の空」が挫折、閉塞、絶望感、人生の意味の喪失、世界の奴隷の状態であるなら、「歯車」は「灰の空」へと至る兆候、その前段階を表している、ともいえるだろうか。
③理想を貫いた誇り、意志の強さなど【積極的な意味】
先ほどは「歯車」をそのように消極的な意味に解した。
しかし晩年に至る心境については士郎は初めから覚悟をしていたものだった。初めて固有結界を発動する時にその想いが表れている。そしてそれが“我が生涯に意味は不要ず”とした理由と思われる。
“この体は、硬い剣で出来ている。……ああ、だから多少の事には耐えていける。衛宮士郎は、最後までこのユメを張り続けられる。……磨耗しきる長い年月。たとえその先に。求めたものが、何一つないとしても”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
士郎や凜が夢で見た生前のエミヤの晩年の風景には「灰の空」はなかった。そのためそれは晩年の士郎と同じような心境だったと思われる。凜はエミヤの夢を見て、エミヤ本人は気づかなくても一度もその在り方を違えることなく貫いていたと述べている。
“もう何が正しいのかさえ定かでないというのに、ただの一度も、原初の心を踏み外さなかった”
“こんな場所なんてどこにもない。ここはそいつの果て。死の際に見た幻、絶えず胸の裡にあった、唯一の誇りに他ならない”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
士郎と凜が夢で見たエミヤの風景 『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
心象風景は唯一の誇りとある。この風景にはおそらく晩年の士郎のように上空に歯車がある。それを誇りとする理由は、「灰の空」という最悪の状態に至ることも最初から覚悟して、それでも理想を貫くという決意、貫いたという達成感を得たからかもしれない。それは「灰の空」の前段階という消極的な状態をそのまま認め、肯定していたと言ってもいいのだろう。そこに魔術師としての最高の素質があると凜は慎二にいう。
“自分以外の為に先を目指すもの。自己よりも他者を顧みるもの。……そして、誰よりも自分を嫌いなもの。これが魔術師としての素質ってヤツよ”
“そんな条件を満たしているヤツがいるなんて思ってもみなかった。こればっかりは、生まれつき壊れていないと持てない矛盾だから”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
最初から人間として欠落している部分を持つ士郎だからこそ持てる素質があり、至ることの可能な場所があると言える。作中で士郎が自身の欠陥から悩み葛藤するのは、普通とは違うことで悩み葛藤する人々のそれと似ているのかもしれない。しかし普通の人間というのは現実には存在しないデータ上の存在であるため、取り戻す必要があるのはやはり現実の欠陥のある人間だろう。士郎は誰よりも自分を嫌いだったため、自身の影であるエミヤと相容れなかったし、エミヤは自身である士郎を消滅させようとした。
④全体性、自己の象徴【象徴的な意味】
士郎と対立するもう一人の士郎であるエミヤは、士郎の相容れない部分、影として見ることもできる。分析心理学では影はそれまでその人が意識してこなかったことを言うらしい。今までは主にエミヤをメインに解釈した。ここでは士郎をメインにした解釈を試みる。それはエミヤを士郎の影とする見方であり、歯車は士郎の無意識の投影とする見方になる。
士郎は罪悪感、強迫観念、犠牲にした人たちに対する責任感から正義の味方になることを目的に生きてきた。それが聖杯戦争と関わることでそれまで気づこうとしなかったこと、考えないようにしてきたことに直面させられている。自身の在り方から生じる様々な葛藤を経て、それを受容れて統合する過程、成長する過程が描かれている。エミヤは士郎を襲う影であると同時に、そうした葛藤を士郎に気づかせて導く存在でもある。
エミヤに対する士郎の態度が、自身の闇、無意識に対する態度だ。意識にとって都合のよくないところを無意識に排除して抑圧してきたために、各ルートで士郎はその膨れ上がった闇と対峙する時に大きな苦痛を強いられている。無意識を見ず、意識のみを重視する態度こそ投影という無意識の自己主張をうながす条件だと分析心理学者のユングは言う。投影された円い形をしたものは、常に秩序と解放と治癒と全体性をもたらすものを暗示しているという。士郎の場合、その円い形をしたものが歯車という形姿になったのではないだろうか。
ユングの『空飛ぶ円盤』によると、円いものの幻視や伝説はいつの時代にも現れてそれはどれも全体性の象徴を意味すると述べた。それは先史時代の太陽の輪、原始仏教の法輪、呪術の円、魔法陣、曼陀羅、錬金術の賢者の石、現代ではUFOなどの形として表れているという。
太陽十字 Wikipedia Radanhaenger-edited.jpg AnonMoosより
スーリヤ寺院の車輪 Wikipedia Konark Sun Temple Details 11100.jpg G-u-tより
エゼキエルの幻視にある輪 Wikipedia Ezekiel’s vision.jpg AnonMoosより
エミヤの風景の歯車のように太陽の輪には円の中の円や十字がある。十字で四分割などにされることで心の混沌は秩序づけられるという。エゼキエルが幻視で見た車輪もエミヤの歯車を思わせる。神秘主義者のヤーコプ・ベーメは輪を永遠の意志、霊、心、自然であり、その特性を生命とした。 円いもの、円環が出現するには理由があるという。
普通、困難や無力感をともなう状況になって出現することが、経験から知られている。そのような状況によって布置される元型は、秩序の図式を表している
C・G・ユング 松代洋一訳『空飛ぶ円盤』株式会社筑摩書房 1993年5月199ページより
それは家庭環境が上手くいってない子どもの見る夢に円形が現れることなどからも知られているという。現代は個人よりも社会や企業、国家などの集団に価値があるとする時代のため、個人が排除され無価値とされ失われてしまうことに対する挫折の感情を補償する時などにも現れるという。第二次世界大戦期から冷戦期に多くUFOの目撃報告が上がったのも、戦争や核爆弾の脅威による潜在的な情緒不安や緊張などを反映しているとユングは考えていた。
士郎はその強制された目的や役割などのために、よりこうあるべきという基準に縛られており、そのために自責の念にかられやすくなっていることがプロローグでも描かれている。
“本当にどうというコトもなかったのだが、そんなに厳しい顔をしていたんだろうか、俺”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
身近で起きた殺人事件の話を聞いたときに一成に厳しい顔をしていると言われた士郎はそのように思っている。しかし夜にはこのように思っている。
“無力さに唇を噛んだ。切嗣のようになるのだと誓いながら、こんな身近で起きた出来事にさえ何もできない。誰かの役に立ちたいと思いながらも、結局、今の自分に出来る事がなんなのかさえ判っていない”
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
また、バイト先が風邪で欠員している時に士郎が入った時のエピソードにも、その在り方ゆえに士郎が無自覚であるものが垣間見える。
「キミさあ、人の頼みを断ったコトないでしょ。前にアタシと父が風邪で寝込んだ時も看病してくれたし」
「? 別にそんな事ないですけど。俺、無理な注文は受けませんもん。自分で出来る事で、出来る場合だけ引き受けますから」
「……ふうん、あん時、キミも風邪引いてたんだけどね」
『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
凄惨な事件に怒りを覚えることも、平気ではないのに平気と言ってしまうことも誰にでもあり得るし珍しくはない。わざわざこの箇所を引用したのは、士郎が自身の言動や心の状態に無自覚であるため、既にラストエピソードの晩年の士郎の兆候がここに伺えたと思ったからだ。理想に対する現実に無力感を抱き、苦しいと思い心を鉄にする、それが半ば無自覚になっている。受け入れられなかった感情は無意識に取り残され、それに無自覚であるために自然発生的な投影の条件が揃う。円環、歯車は既にいつ投影されていてもおかしくない。そのように内面が統一されず分裂した士郎の片割れが、エミヤという影として現れる。エミヤという対立物が統合されていない場合、全体性は成立しない。逆に言えば影を統合することで士郎の分裂も統合される。それは自身の影について自覚したことを意味する。無自覚の為に投影されていた歯車は、自覚されることで投影されなくなる。その意味で歯車とエミヤは同じ存在といえる。歯車の浮かぶエミヤの世界は士郎の意識の及ばない世界であり、それを人の住まない無機質な極限の世界、荒野と呼んでもいい。その世界の歯車はエミヤという対立物を統合した時に全体性が成立し、内心の平衡を得ることが出来、士郎は癒され解放されることを暗示している。UBWルートの士郎の心象風景に歯車が見えないのは、この士郎は以前の状態と比べて癒され解放されているからかもしれない。
ユングは円いものという統一の象徴が複数ある理由は多数の独立した統一体、複数の「自己」への分裂を意味すると述べた。エミヤの世界の歯車が複数ある理由もこれと同様かもしれない。それは複数の心的全体性のイメージの投影のためらしい。ユングは過去の複数のUFO現象の報告もその表れとした。
昇る太陽の前で無数の大きい黒い球が飛び交い、あるものは赤く火のようになり消えていった。
1566年のバーゼル上空の天文現象 Wikipedia Basilea1566.jpg Springspinneより
太陽の近くで赤、青、黒の無数の球や円盤が見られた。キリスト教とは無関係の十字や大きな筒、大きな黒い槍のようなものも。
1561年のニュールンベルク上空の天文現象 Wikipedia Nuremberg1561.jpg Inri375~commonswikiより
また、ユングによると、ゴッホは星を「汎神論的な陶酔」「黙示録風な空想の軌跡」と呼んだという。大きな輝く星の円盤は「私たちのような生きた人たちの群」と言い、また星空の絵はある夢がヒントにあったという。
ゴッホの『星月夜』 Wikipedia Van Gogh – Starry Night – Google Art Project.jpg Dcoetzeeより
エミヤの風景の歯車 UBWルートオープニングムービー 『Fate/stay night[Realta Nua]』Android版 TYPE-MOONより
十六世紀の空中に浮かぶ複数の物体やゴッホの星々の円盤とエミヤの世界に浮かぶ複数の歯車は、複数の円形が表現されている点で共通している。
円いものが歯車の形姿である理由は、士郎が現代の機械文明の時代に生きているためであるかもしれない。また、士郎やエミヤが自身を人々に使われる機械としてきたことからも、部品的な意味として歯車をモチーフとした形姿になったのだろうか。それは個人を部品とすることで全体の利益を上げる代償に、個人の価値が喪失されやすい時代に生きていることの表れかもしれない。以前も同じようなことを考えて感想を書いたことがあった。
現代は、分析心理学によれば共同体の目標の為に個人の機能の分化発展を望まれ、個人の存在は無視されやすい時代だという。また政治哲学によれば現代の原則の一つはあらゆるものを一律に評価する考えのため、人間や社会的営みは道具として評価されやすいという。エミヤの世界に浮かぶ巨大な歯車は、消極的な見方をすれば機械化して分裂する意識や機械化した共同体に個人が抑圧されている事の暗喩だったりするのだろうか。こうした状態から解放されることがFateのテーマの一つになっている。解放とは、機能や役割としての自分ではなく個人としての自分、存在としての自分を取り戻すことにある。人間の尊厳を取り戻すことにある
「【Fate/stay night】感想 ラスボスについて」より
今見るとそれは暗喩というより抑圧されている事の補償として癒し、解放する全体性の象徴と書いた方が適切だったかもしれない。この時はまだ『空飛ぶ円盤』を読んでいなかった。
しかし個人を部品、歯車とする社会であっても、実際それによって個々人も物質的に豊かな生活を送ることが出来ている事実がある。機械化により特別な能力がなくても生活できる糧を得ることが出来て、社会の役に立つことが出来る。その共同体、組織に属することで誇りを得たり、生きる意味を与えられたりすることもある。そのため、大事なのは個人が社会と同一化し過ぎないことにあるのではないだろうか。社会の理想とするのは全体の利益や秩序にあり、学校教育が一般的に目指すのもまた、生徒がそういう社会に適応できるようにすることにある。そういう社会と一定の距離を置くことで、個人の個性が保たれる。そうでなければ社会の為に個人の個性が犠牲になる。そういう犠牲、社会の奴隷状態を無意識に投影されたのが夢や幻視としてUFOの形で現れることもあるらしい。長々と書いたけど結局オレが言いたいことを一言で言えば、エミヤの歯車とはそれと同じではないか?ということだったと思う。それは「灰の空」の兆候、前段階だ。
自然によって心の内に与えられているものを、自然の姿そのままに想い描いた表象という形で捉える行為を、中世の西洋の錬金術師たちは作業(オプス)と呼び、ユングはそれを無意識の内容を把握する過程と見た。士郎が日々の魔術の訓練で得ようとしたのも、自分は何者かということであり、その方法も、自身の正体も分からないまま進んできた長年の過程を経て、自然によって心の内に与えられているものを形にした。士郎の変化は錬金術師たちのように個人の個性化の過程を表現していると見ることも出来る。士郎の聖杯戦争に巻き込まれた体験は長年の過程の末に現れた一種の神秘、内的体験とも言えるかもしれない。聖杯自体も円形と同じく全体性の象徴だった。士郎が魔術訓練をしていた場所は、士郎が精神統一、集中できる土蔵であり、それは士郎の本当の部屋とされていた。それはまた士郎が本当に個性化に至る場所と呼んでもいいように思う。士郎がアルトリアと出会った場所もまたそこだった。ラストエピソードで士郎がアルトリアと再会するのもまた、そういう過程の末の体験と言えるのかもしれない。それは犠牲、奴隷状態からの解放と言える。
まとめ
歯車とは、心を鉄にして人々に機械として使われ続ける士郎の犠牲、奴隷状態の無意識の反映であり、それはまた現代という時代に対して抱く現代人の困難や無力感と共通するものだと思った。
しかし円いものという元型は一義的な意味ではないため、士郎にとってはまた違う意味もあるかもしれない。結局は製作者たちのみ本当の意味を知るのだろう。いや、知らないかもしれない。『Fate Complete Material』にも詳しくは載ってなかったため意味はない可能性は大きい。それならロールシャッハテストと同じで、見る側の主体とその不随意の反応によるなら、歯車の意味はそれを見る人の数だけあることになる。見る人の数だけ正解かもしれない。
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